中津川行者堂
【 妙経化城喩品第七】 ※要約 釈尊は、男性出家者に対し、「私はかつて大通智勝仏という王の十六人の王子の末っ子だが、その時以来、あなたたちは、菩薩であった私と共に何度も何度も生まれ変わっては、私から法を聞いてきた。さらに、これまでどのように導いてきたかを「化城宝処の譬え」で説明する。
【日本遺産】 葛城修験(構成文化財) 中津川(第七経塚) / 粉河寺 / 熊野神社 / 中津川行者堂
引用・抜粋文
『葛城峯中記』 (室町時代初期) 鎮永/千勝院
四十二 粉河寺 牛頭多輪・観音・・・関桂宿 本坂寶殿三アリ。二丁計南本社也。愛染 寺地アリ。護摩堂ノ跡 南ノ麓ニ閼伽井在。化城喻品第七 釋迦水アリ。中津川秘所参アリ。宮妙見三部八王子西ハエヒス、地蔵。金剛童子・護摩壇。右東ノ谷ヲ尾マテ上レハ大道也。 四十四 檜宿左ヘ入道有、金剛童子。七八丁行、左ヘ下、吉水在行者獨鈷ヲ御給也。 仁照嶽 五智嶽。
『葛嶺雑記』 (江戸時代後期) 智航/ 犬鳴山七宝龍寺
補陀落山粉河寺 ここより中津川にいたるみちに、檜木の杜に役行者御腰掛松、桃の宿 中津川高祖堂 聖護院宮御支配にして恒例天長地久の大護摩所、本堂神變大士、脇に三尊彌陀 其のおくに熊野権現社、丹生明神、若一王子、秤木宿山に金剛童子、其外御回行經塚等 妙化城喩品第七之地
【以下の文献より引用・抜粋】 ●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録
志野峠・松峠から粉河寺へは、桜池付近を下ったと思われる。現在、桜池の周辺は果樹栽培が盛んで、果樹園に通じる道が網の目のように通っている。桜池西岸を走るコンクリート製の 車道は、第六経塚アラレの宿まで通じているが、かつての行者道は下地図に示したとおり、粉河寺まで下り、そこから中津川を経由して 第六経塚に赴いたと思われる。 粉河寺は、西国三十三所三番札所であるが、庶民の間に観音霊場巡りが盛んになるのは江戸時代である。平安時代後期は、 西国三十三所が確立する草創期であったが、『枕草子』には、「寺は壺坂。笠置。法輪。高野は、弘法大師の御住處なるがあはれなるなり。石山。粉川。志賀。」と記されており、 粉河寺そのものが、当時から、観音霊場として信仰を集めていた ようだ。本尊千手千眼観世音菩薩は、絶対秘仏で公開されたことはないという。 本堂左手の小径を辿っていくと石の階段があり、その上に行者堂がひっそりとたたずんでいる。年に一度、旧暦初午の日に、堂内の役行者像が開帳され、それに合わせて、粉河寺本堂前にて採灯大護摩供も厳修される。
現在、聖護院本山派の山伏たちは、毎年4月、葛城入峯を行っているが、友ヶ島と中津川は必ず巡行しているという。その際、ここ粉河寺で勤行したあと、中津川の行者堂と熊野神社をめざす。粉河寺大門を過ぎると左手に不動堂があり、道を挟んで向かいに「左 役行者道」と「中津川路改修」の石標が立っている。行者一行は、この前の道を北進し中津川をめざす。 京奈和自動車を越え広域営農団地農道にさしかかる交差点には、「檜木宿の跡」と刻まれた石碑が立っている。説明文には、ここに役行者腰掛松があったと しており、行者たちの行所であったと記している。ここから先は、舗装道路に沿って中津川の集落があり、やがて民家が途絶える あたりから道路も細くなり、乗用車の通行も困難となる。すると、道沿いには石仏や町石などが目に留まるようになり、行場が近づいてくる雰囲気が感じられる。「檜木宿の跡」から約45分で、行者堂に到着する。 役行者は、前鬼・後鬼という2匹の鬼が従えていたと伝わるが、『紀伊続風土記』第一輯(中津河村)によると、前鬼の子孫五人は中津川に住み、後鬼の家五軒は洞川(奈良県天川村)に住んだという。中津川の五鬼の家は、本山の聖護院から名前(前坂主殿・亀岡式部・西野主馬・中井左京・中川但馬)をもらい、中津川行者堂を管理すると共に、代々にわたり入峰修行を支えてきた ようだ。 聖護院では、山伏の位階を受ける「葛城灌頂」という重要な儀式を、ここ中津川の行場で執り行っている。また、毎年4月、春の峰入り修行の際には、粉河寺を出発した行者たちは第七経塚や熊野神社で読経を行った後、中津川行者堂での護摩供の儀式を行う。こうした 際の行者のもてなしや護摩供の準備など、様々な段取りを行うのが、五鬼の家が中心となった中津川の行者講である。 長い石段の上に、普段はひっそりとたたずむ行者堂。もとは、熊野神社の背後の山にあった一乗山七越寺の無量寺が、1637年(寛永14)頃に、今の阿弥陀堂に移され行者堂になったという。境内には、たくさんの石碑が点在し、 多くの先人たちの修行の証が読み取れる。お堂の左手には、「大本山聖護院門跡出張所」と書かれた木製の看板が掛かる宿坊がある。 行者堂の石段を下り、さらに北へ数百メートル進むと、先の行者堂とは打って変わり極彩色鮮やかな熊野神社の社殿が目に入る。手前には、「葛城 前鬼谷」と刻まれた石碑が立っているが、こちらは1984年建立と比較的新しい。神社ではあるものの、修験道では神仏習合の行所は珍しくなく、こちらも大切な巡礼の地である。 行者堂から熊野神社へ行く途中、左手に第七経塚アラレの宿に通じる山道がある。現在は、利用する人も少ないため、山道は荒れている。途中、車の通行が可能な農道に合流する 。やがて、桜池から伸びるコンクリート舗装の農道に行き当たり、ここからさらに北進する。しばらくすると、Yの字の分岐路が現れ、正面の松林にアラレの宿跡がある。ここは、和泉砂岩の自然石が経塚で、「寛延四年(1751年)」の銘がある。 このY字路を右手にとり、さらに進んでいくと(車の通行可)、紀の川東IC付近から伸びてきた車道と合流する。その交差点付近の松林に秤木ノ宿跡があり、石の祠がある。そ さらに車道を北進すると五本松、そして、和泉葛城山に至る。
『紀伊国名所図会』中津川