志野峠(第六経塚)
【妙経授記品第六】 ※要約 迦葉、須菩提、迦旃延、目連の4人の声聞に対して記別が授けられる(授記)。記別とは、如来が弟子に対して未来の成仏の保証を授けることである。
【日本遺産】 葛城修験(構成文化財) 志野峠(第六経塚)
引用・抜粋文
『葛城峯中記』 (室町時代初期) 鎮永/千勝院
三十五 上朽佛 千草嶽ト云。五大尊ノ嶽四方ノ山ニ明王立給也。東へ尾傳ニ五六町兒留。 是ヨリ左へ下、今畑也。瀧有、上二金剛童子有、在所ニ櫻見㕝也。 三十六 闇谷宿 蜘蛛留 中畑。西後ノ谷ヲ南方へ五六十丁登レハ西原ニ金剛童子。 三十七 松尾宿 三十八 西持經者 授記品第六里中有。行者關伽井石 三十九 大遣水宿 神通畑 上平多輪。 四十 東持經者 猪垣多輪 延喜多輪。河付而大道ヲ廿丁計下へ、犬鳴ノ谷ヲ見、向ノ尾崎川ヲ越テ上レハ道也。犬鳴山七寶瀧寺・・・。神通ノ口迄返、大道ヲ南へ入、満藏不動堂、辨财天、石地藏有リ。 四十一 飯原寺 捌下咒願松トテ大木有。今小松也。是ヨリ東ノ山ヲ北へ行、又満藏ヨリ五六丁入、左東ノ谷ニ細道有。是ヲ上レハ上ノ道ヘ出ル近道也。 四十二 粉河寺 牛頭多輪・観音・・・関桂宿 本坂寶殿三アリ。二丁計南本社也。愛染 寺地アリ。護摩堂ノ跡 南ノ麓ニ閼伽井在。化城喻品第七 釋迦水アリ。中津川秘所参アリ。宮妙見三部八王子西ハエヒス、地蔵。金剛童子・護摩壇。右東ノ谷ヲ尾マテ上レハ大道也。
『葛嶺雑記』 (江戸時代後期) 智航/ 犬鳴山七宝龍寺
今畑多聞寺 このさとよりくらたに山の経塚遙拝 妙薬草喩品第五之地 中畑来迎寺 九頭龍明神 本地十一面 八王子社 神通畑 右は三ヶ畑といひて高祖のみゆかり深きにや中津河とひとしく往古より課役免除の里なり、古記に西持經の塚東持經^垣のたわとみえける、されは志野峠の塚あり 妙授記品第六之地 補陀落山粉河寺 ここより中津川にいたるみちに、檜木の杜に役行者御腰掛松、桃の宿
【以下の文献より引用・抜粋】 ●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録
倉谷山の第五経塚から、尾根伝いに山道を東へ進むとやがて林道に出る。そこから先は、池田隧道北口に至る林道 で、現在は、第六経塚までの最短ルートである。しかし、『葛城峯中記』の頃は、倉谷山に第五経塚はなく、今畑や中畑の里を紹介している。倉谷山の西側に、今畑に下るルートがあり、尾根を西に進んでいけば中畑峠から中畑に下りることができる。一方、『葛嶺雑記』 では、今畑の里から倉谷山を遙拝しており、登らなかったかもしれない。 和歌山県紀の川市と大阪府泉佐野市日根野を結ぶ県道62号線(泉佐野打田線) は、和泉山脈の鞍部を縫うようして開通させているが、現在は、池田隧道によって難所を回避している。その池田隧道を北へ下ると、神通温泉があ り、その手前を左折すると、二瀬川沿いに「神通」「中畑」と集落があり、その最奥が「今畑」である。池田隧道を抜けると大阪府に入ったような錯覚が起こるが、ここはまだ和歌山県紀の川市である。現在(2022年)、今畑は廃村となっており、白髭神社の西側に、何軒かの民家のあったことが 取り残された石垣で分かる。白髭神社は、林道の分岐から標高50mほど上がったところにあり、四駆の軽トラがなんとか上って行けそうな車道が 引かれてある。したがって、川沿いの道からは神社も集落跡も窺えない。 白髭神社の社は小さいが、「文化元年(1804年)」の銘の入った石灯籠が一対残っており、往時の隆盛を偲ぶことができる。三井寺や青岸渡寺、七宝龍寺の碑伝が残されており、今も、折々に行者の姿が見られるようだ。また、同じ境内に多聞寺の祠もある。興味深かったのは、多聞寺のさらに右隣に、十数体の石地蔵が一ヶ所に安置されていた。そのうちの一体に「正徳二(1712年)」の銘が刻まれていた が、今畑集落内や周辺の石地蔵が、いつしかここに運び集められたのかもしれない。
今畑から中畑集落にさしかかる入口の左手に、小さな案内の札を見つけたので、村道からはずれその先を進んでいくと、九頭龍神社の立派な社殿が 出迎えてくれた。こうした小さな標識を見逃すと、なかなか目的地にはたどり着けない。九頭龍神社境内の右手には、和泉砂岩製の石祠が三基あり、そのうちの一つには「正徳元年(1711年)」の銘があった。先の 白鬚神社の石地蔵とほぼ同時期である。 ここ中畑集落は、村人の生活の営みがあちこちにみてとれる。車道で立ち話をしている方に呼び止められ、私の村道歩きの目的をお話しすると、「この道は秀吉が根来攻めの時に使われたらしい んよ。他ではあんまり言わん方がええけど。」と、笑いながら教えてくれた。その信憑性はともかく、かつては根来寺に通じる道として使われていたことが裏付けられる。 中畑のもう一つの立ち寄り先は来迎寺であるが、村道に沿って流れる二瀬川を渡ったところにある、というところまでは地図上で分かる。しかし、 地図上のその場所には、それらしい寺院はなく、また別の村の方に尋ねると、目の前の公民館を兼ねている建物が来迎寺だと教えてくれた。もとは、その西側の現在墓地となっているところに その寺院があったそうだ。残念ながら、寺院の中を見ることはできず、入口に打ち付けられた幾つもの碑伝をその証として心に留めた。中畑峠から下りてくると、この寺の前の道に至る。 中畑から神通に至るが、神通の集落は、村道を右折し、二瀬川を渡ったところにある。村の入口には、石の鳥居の立つ浦上神社がある。葛城修験では「明神春日」という名で伝わっており、やはり修験の行所であったようだ。 『葛城峯中記』によると、神通から第六経塚の志野峠に向かうのが大道であるが、犬鳴山七宝龍寺に赴いて行所を巡り、再び神通にとって返したとの記述もある。現在、犬鳴山七宝龍寺 の身代不動前広場の右奥にある登山口から、そのまま第八経塚の燈明ヶ岳に登るのが一般的だが、当時はそうでもなかったようだ。 神通温泉付近からの旧道は、所々県道62号線と交差しながら併走しているが、車両は通行止めとなっている。旧道には、万蔵地蔵があり、『葛城峯中記』 の時代から、旅人を見守ってくれているらしい。県道62号線は池田隧道に抜けていくが、志野峠へは、その手前を左折して林道に入っていく。やがて、志野峠と松峠の分岐路があり、いずれの峠にも第六経塚がある。 志野峠の経塚と松峠の経塚は、地図上で印を付けると交差しかねないほど近い距離にあるが、案内者なしに訪れると、なかなかその所在地が見つ けられないかもしれない。志野峠の経塚石に年号は見あたらないが、松峠の方には「昭和三十六年」とある。そうした年号の銘が、そのまま経塚の歴史を表しているわけではないが、 第六経塚が二つ存在する理由はよくわかっていないようだ。経塚石の風化具合から判断すると、志野峠の方が古く、左手に石地蔵も立っている。 ここから、根来寺と並ぶ紀北の古刹粉河寺をめざすことになる。