【日本遺産】第四経塚桜地蔵
【妙経信解品第四】 ※要約 釈尊の弟子である4大声聞は、「すでに迷いの世界であるこの三界(欲界・色界・無色界)から脱出して安らぎ(涅槃)を得たと思っているので、一度でさえもその正しく完全な悟りに対して熱烈に願望する心は生じなかった」と自白する。そして、「三車火宅の譬え」とはこのように理解してよろしいかと「長者窮子の譬え」を語った。 <備考>四大声聞:迦葉、須菩提、迦旃延、目連
【日本遺産】 葛城修験(構成文化財) さくら地蔵(第四経塚) / 中山王子跡
第三譬喩品の経塚の所在地については、大福山、雲山峰、墓ノ谷の三説があるが、次の第四経塚「妙経信解品」へは、落合、滝畑の里を経由したことに異論はないようだ。登山を目的とするなら、JR六十谷駅からJR山中渓駅まで、札立山、大福山、懴法ヶ嶽、雲山峰と紀泉アルプスを縦走する健脚向きコースがある。しかし、葛城修験は、多輪・留(とまり)・宿・寺を結ぶ道であり、寺から寺へ、里から里への山林抖擻(とそう)にその特徴がみられる。 大福山から井関峠を越え、雲山峰をめざす途中に標高446m地蔵山がある。この付近は六角堂の休憩所があり、紀ノ川に向かって眺望も開けている。ここから落合の里に下っていくのだが、ルートは 幾通りかあり地蔵林道に通じている。 【落合】 地蔵林道から下ってくると、落合集落の西の端に落合八王子社がある。現在は、社殿や祠はなく、石灯籠の奥に自然石の祭神が祀られている。他に、たくさんの石仏が置かれている。案内板には、「三之宿行所」と記されていた。 落合の集落には、現在5軒の民家があると聞いているが、そのうち何軒かは空き家かもしれない。たった5軒とはいえ、滝畑から車道が通じているはずだと 、車で進入を試みたことがある。結論を言うと、軽四なら可能だが、それでも滝畑春日神社から西へは二度と試みようと思わなかった。車幅ギリギリの箇所が数限りなく、到達するまでに神経をすり減らしてしまいそうな道幅である。そんな山間だが、広大な水田が開かれた平地が川沿いにあり、今なお 耕作地として田畑が生きていることにホッとした。 【滝畑】 滝畑集落の西の入口には春日神社がある。ここに流れる滝は、「音無しの滝」と呼ばれ、『紀伊国名所図会』によると、『枕草子』で清少納言が褒め称えた「音なしの瀧」とは、ここ滝畑のこの滝だと推しているが、はたしてどうなんだろう。その真偽はともかく、葛城修験の行場として使われた滝であると案内板が立てられている。 また、滝畑集落の東入口には、大きな長屋を構えた民家があり、軒下に各講の碑伝が打ち付けられている。この家の住人の方にお話しを伺うと、 今でも落合方面からやってきた修験者一行の休憩所となっており、お茶などをもてなすそうだ。 落合に比べて滝畑は民家も多い。集落の東端に中山王子跡があるように、ここは昔から大阪と和歌山を結ぶ交通の要所であった。「蟻の熊野詣」と言われるほど熊野信仰が盛んであった平安時代の中期から鎌倉にかけて、皇族・貴人の先達をつとめた熊野修験が、参詣者の守護を祈願し熊野古道沿いの神社群を組織したのが九十九王子(くじゅうくおうじ)である。このうち、現和歌山市内には 9社の九十九王子跡が伝えられている。京都・大阪から熊野三山を目指す参詣者が使った熊野古道紀伊路は、山中渓から滝畑の中山王子、そして雄ノ山峠を越え、湯屋谷の山口王子、さらに川辺王子、中村王子を経て紀ノ川を渡り、現JR布施屋駅近くの吐前王子に至 った。現在は、和歌山県道・大阪府道64号線が雄ノ山峠を越えているが、この狭い切り通しのような 狭間には、さらにJR阪和線、阪和自動車道も束ねている。1221年(承久3年)の承久の乱以降、熊野詣は下火となり、九十九王子は衰退したと考えられるが、熊野古道紀伊路は、その後、和泉と紀伊をつなぐ街道として賑わう。
引用・抜粋文
『葛城峯中記』 (室町時代初期) 鎮永/千勝院
二十五 成願寺観音堂 右山地主權現西左ノ原二行者ノ御母ノ墓アリ、高野丹生大明神。 瀧畑里。 二十六 □□捌下、廉多輪 右ノ上金剛童子在ス瀧アリ。 ※雄山峠? 二十七 栂宿 北四五町下、薬師堂 右辨財天 二十八 入江宿西宿トモ云。宿着童子爐檀有リ。信解品第四是ヨリ南江行、根來南谷出也。蓮花谷ヨリ左江行ハ鴛川江出也。瀧畑大道ヲ南へ貳拾町計行、左ノ細道へ入行ハ根來ノ坂本へ出也。又北へ行ハ薬師ヨリ堺畑直ニ越へ、入江ノ宿ヲ除藏王也。是ヨリ五丁計東江行ハ右南ノ谷江入。又東へ谷有。其次ノ谷ヲ嶽迠登リ、東へ下、右ノ谷へ入、右南へ行ハ根來江出、左ノ谷へ入、鴛川也。右ノ間。 二十九 尾宿 三十 梯畱多輪 口畑 三十一 炎明寺 薬艸喩品第五 三十二 石曳瀧寺 三十三 豊福寺 鴛川中宮ハ山王、西ハ金剛童子東ハ八王子下ハ聖観音 ・・・是ヨリ東ノ谷ヲ行當、右南之谷江入。 三十四 棑宿 東宿云。大朷(木+刃)多輪 尾傳東江廿丁計行ハ大道江出ル。
『葛嶺雑記』 (江戸時代後期) 智航/ 犬鳴山七宝龍寺
瀧畑金剛童子 其例に薬沙堂また十町ばかりおくに不動の瀧 神變大士祠 丹生明神等 各遙拝のために望剛童子にて勤行を仕来りしならむ 入江宿除蔵王 宿着童子本地一切世間苦悩、西方仏 紀泉國堺入江宿に鎮座し給ふ。山中の宿着すきて彼岸のいりえにそ見るさくら地蔵を三十歩斗ゆきて梵字石あり 妙信解品第四之地 鴛河萬福寺 本堂正観觀音本社山王に相殿東八王子西金剛童子惣而九神の社なり、前に佛像を彫たる石、又梵字石等数々にありて、いずれもいにしへの御作のものとみゆ。五六丁おくに不動堂・神變大士堂・石の窟・地蔵 一乗山根来寺 是より山路に朽佛。地名は千草が嶽。五大尊が嶽
【以下の文献より引用・抜粋】 ●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録
【第四経塚入江/桜地蔵】 さて、第四経塚がある桜地蔵へは、滝畑から山中渓の方へ折れる。途中、和歌山県と大阪府の県境に「境橋」という名の橋が架かり、1863年(文久3)に決行された、日本最後の仇討場と、案内板は伝えている。境橋を渡ってすぐに右折すると、境谷に至る。この 道を入って数十メートルの左手法面に、第四経塚妙経信解品、通称桜地蔵の経塚がある。経塚を示す石碑には「文安五年(1448年)八月十五日」の名が刻まれており、葛城二十八宿経塚の中でも最古の年号である。阪和自動車道建設に伴って、この地に移設されたそうだが、かつてはどの場所だったのだろうか。 一方、JR山中渓駅近くにある山中関所跡が第四経塚であるという説もあり、ここにもたくさんの碑伝が見られるように、各講の巡礼を迎えている。 【根来寺へ】 第四経塚から第五経塚の倉谷山へは、途中、根来寺や押川(おしこ)の行所を経由したようだ。『葛城峯中記』 が記された室町時代初期は、豊福寺境内に円明寺(炎明寺)などが建てられ、そこに薬艸喩品第五経塚があったとされ る。根来寺として大伽藍を配するのはその後である。そして、経塚はいつしか倉谷山に移されたと推察される。『葛城峯中記』 では、桜地蔵から円明寺(炎明寺)へは、熊野古道紀伊路(府県道64号線)を南下し、雄ノ山峠の手前で東ヘ折れ、狼谷、郷ノ峠を越え て根来寺に至るルートが1つ。もう一つは、 境谷の集落から南東方向へ谷を通り抜けていくルートである。