高仙寺(孝子)
【妙経方便品第二】 ※要約 「(舎利弗よ、)正しく完全に悟った如来は、ただ1つのなすべきことのために世間に出現した。それは、衆生を如来の知見によって教化するということである。私(釈尊)はただ1つの乗り物(一乗)、すなわちブッダに至る乗り物について衆生に法を説くのだ。これまで3つの乗り物(声聞・独覚・菩薩)を説いてきたのは、一仏乗に導くための私の巧みな方便であった」と。
【日本遺産】 葛城修験(構成文化財) 神福寺跡・二之宿観音堂(第二経塚) / 西念寺 / 慈眼院(観音寺) / 高仙寺(孝子観音)
引用・抜粋文
『葛城峯中記』 (室町時代初期) 鎮永/千勝院
二 伽陀寺・・・ 橘多輪 方便品第二 三 今八幡 號鳩留。東へ嶺續駈入也。 四 行者返 尾傳、艮へ往。 五 釋迦留 道ヨリ左ノ谷ニ平地、木四五本有リ。金剛童子跡、皈。東ヘ尾傳ニ登レハ東ノ谷ニ日野里ルナリ。 十輪寺地蔵 河東山原八王子金剛童子。是ヨリ後東ノ谷ヲ六七丁往ハ上ニ道有。 右南へ五六町往ハ左ノ谷ニ松木見ル所へ往テ吉。 六 二宿馬頭塔 本尊十一面・・・ 深虵池在。金剛童子前柴燈 是ヨリ下ハ北ヘ十丁許往テ右東ノ谷ニ入ハ左瀬川也。 七 苗代宿 山田留トモ云。孫太夫ト云者有。是ヨリ東ノ谷五六町往ハ堤有。是ヨリ左ノ尾へ登レハ田川ノ東畑江下也。 八 松白宿 今熊野是也。右ノ山ニ九頭明神、辨財天、左北ノ山原ニ福智寺ト云舊跡有。 九 蕝多輪 百足留。橋渡、東ノ谷ヘ入、尾ヘ登レハ長尾ノ道。六七丁南ヘ行キ、左へ尾傳に下ハ大道ナリ。 十 黒澤寺 金輪寺釋迦。 十一 般(若)多輪 戸影留 十二 高山寺 寶杵山。行者持給三古有。・・・役行者御母ノ墓在也。如法尾如法經ノ行者住所也。 十三 如法宿 般若宿 戸笠畱 馬頭觀音 禪前童子。高山ヨリ左ニ三角留アリ、谷ヲ奥へ入、低尾ヲ上ル。 十四 飯盛寺 釋迦。薬師院。奥院北江二町計行。辨財天、一字一石大般若アリ。號般若嶽。雨明神。 十五 阿彌陀留 十六 き(※)多輪。西ニ水アリ、き(※)ノツホアリ。烏多輪谷ニ石塔アリ。南麓ニ ※虫へんに鬼(誤字か)
『葛嶺雑記』 (江戸時代後期) 智航/ 犬鳴山七宝龍寺
二ノ宿光福寺 紀州同郡日野村にあり、本堂地蔵、八王子社、阿伽井。 同 神福寺 本堂十一面観音・役行者座禅石・善女が池・高祖堂、其側に塚あり。妙方便品第二之地 同 明鏡山慈眼院 ・・・九頭龍明神・本地堂十一面・神變大士・金剛童子 山上に熊野權現有遙拝、但し三の宿と及びはんにやがたけは此所より遙拝なり、また此嶽をいひもり山ともいへるなり 三ノ宿横手村 八王子社 本地堂千手 飯盛ヶ嶽 一名般若が嶽 本尊釈迦 雨明神 弁才天・・・ 同 金輪寺 本尊釈迦 正観音 同 寶長山高仙寺 本尊十一面 神變大士 役行者御母公の墓 右四点を以て三之宿とす
【以下の文献より引用・抜粋】 ●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録
【第二経塚・神福寺跡】 第2次世界大戦時に、紀伊水道を守るため友ヶ島や加太を中心に由良要塞が築かれた。その1つとして西ノ庄保塁というのが存在していた。軍事要塞の名残は山林の茂み奥に眠っているが、まずは、1984年に開校した和歌山県立和歌山西高等学校をめざす。この校門前の車道をさらに上っていくと、「史蹟葛城山二之宿観音堂」と刻まれた比較的新しい石碑が見える。そこを右折し、さらに窯元の工場に沿った古道を辿っていく。この道は、佐瀬川の里に通じるかつての生活道路だが、今は軽トラがやっと走れる農業用道路に化している。数分で右手に古池、そして、左手の踏み跡の向こうに第二方便品の経塚がある。 この経塚周辺は江戸時代まで隆盛を誇っていた神福寺の寺院跡である。『葛城峯中記』では、「深虵池在。金剛童子前柴燈」、『葛嶺雑記』 では「善女龍王ノ池」の記述があるが、先の古池がこれにあたると思われ、、今も残っている神福寺の痕跡はこれくらいである。1.5km南にある西庄の西念寺観音堂の前に灯籠があり、「葛城山二ノ宿永代文化二年三月」と銘がある。さらに、手洗石には「葛城二宿貞享二年二月」と刻まれ、神福寺 が廃絶したあと、この寺院に引き継がれたようだ。 『葛城峯中記』や『葛嶺雑記』 では、日野の光福寺(十輪寺地蔵)を経由して第二経塚に至るルートが記されているが、日野の里は西側の谷にあり、標高差150mほどをいずれかの尾根づたいに登ってきたと思われる。 【佐瀬川慈眼院から孝子金輪寺】 第二経塚から、北進し佐瀬川の里に入る。この集落には慈眼院があり、『和泉名所図会』にも、役行者が海浜で拾った霊木から作った観音であると記されている。二ノ宿の佐瀬川から甲山を巻いて、横手の三ノ宿八王子社をめざす。甲山山頂が行場との係わりはなさそうだが、西に紀伊水道、東に和泉山脈と山頂からの眺望はすばらしい 。『葛嶺雑記』 では、「但し三の宿と及びはんにやがたけは此所より遙拝なり、また此嶽をいひもり山ともいへるなり」という一文が見られる。飯盛山(別名般若ヶ岳) は、ここから遙拝したのかも知れない。また、『葛城峯中記』 には「是ヨリ左ノ尾へ登レハ田川ノ東畑江下也。」とあり、猿坂峠から尾根伝いに多奈川東畑(田川ノ東畑)・横手の集落 に至ったとも読み取れる。横手集落南端に三叉路があり、三輪神社への上り口があるが、尾根道はここに出てくる。 この三輪神社境内に、三基の石祠や石碑があり、この一つが八王子社で、もともと孝子越えにあったものが、ここへ移されたらしい。孝子越えを歩くには、たくさんの石仏が安置された小堂を目印に、その脇の峠道を進んでいく。 峠を越え(孝子越え)孝子に入るが、こちらの金輪寺も三ノ宿となる。金輪寺は、1691年、黄檗山萬福寺の末寺として黄檗宗(禅宗の一派)に改宗されているが、本尊釈迦牟尼仏は、飯盛山千間寺が信長の兵火にかかった際、村人によってここ金輪寺に運び込まれたと縁起に記されている。朱色に塗られた中国風の三門にまず目を奪われるが、境内は高台にあって見晴らしがよく、南海電鉄本線を挟んでちょうど真東に高野山(たかのやま)が望める。この南麓に高仙寺があり、上孝子の集落から標高差約40mの本堂に至るには、「禁殺生」と彫られた巨石におののきながら長い石段の参道を登っていく。ここからすでに、高野山及び飯盛山登山が始まっている。
【高仙寺から飯盛山】 高仙寺の本尊は秘仏十一面観音で、「孝子の観音さん」として信仰を集めてきたようだが、現在は、ひっそりとした山寺である。もとは真言宗で、江戸時代に曹洞宗永平寺派に転宗されている。四ノ宿であった名残か境内には行者堂もあるが、本堂左奥の役行者像の石祠と共に「役行者母公之墓」の石標が建ち、石が積み重ねられている。ちなみに、墓の谷行者堂にも「役行者母公之墓」が伝わっている。 飯盛山山頂(384.5m)付近には、千間寺(あるいは飯盛寺)という寺院があったが、信長の雑賀攻めや秀吉の根来攻めによって焼失したという。山頂南側の窪地には井戸が残り、付近には古い瓦などを見つけることができる。高仙寺から飯盛山ヘは、上孝子の集落を抜けて川沿いの道がついている 。利用者が少ないのか雑草が伸びて足場に困る箇所もあるが、『葛城峯中記』 には、「高山ヨリ左ニ三角留アリ、谷ヲ奥へ入、低尾ヲ上ル。」とあり、このルート使ったと思われる。一方、高仙寺の背後から高野山を経て尾根伝いに伸びている 尾根伝いの山道もあり、峯中修行らしいお薦めのコースである。『葛嶺雑記』 にも、飯盛ヶ嶽について触れられているものの、江戸時代には、山頂にあった飯盛寺は荒廃していたと思われ、遙拝にとどめたのかも知れない。