● 【葛城二十八宿】 第二経塚「妙経方便品」

高仙寺(孝子)

【妙経方便品第二】要約
  「(舎利弗よ、)正しく完全に悟った如来は、ただ1つのなすべきことのために世間に出現した。それは、衆生を如来の知見によって教化するということである。私(釈尊)はただ1つの乗り物(一乗)、すなわちブッダに至る乗り物について衆生に法を説くのだ。これまで3つの乗り物(声聞・独覚・菩薩)を説いてきたのは、一仏乗に導くための私の巧みな方便であった」と。

【第二経塚・神福寺跡】
 第2次世界大戦時に、紀伊水道を守るため友ヶ島や加太を中心に由良要塞が築かれた。その1つとして西ノ庄保塁というのが存在していた。軍事要塞の名残は山林の茂み奥に眠っているが、まずは、1984年に開校した和歌山県立和歌山西高等学校をめざす。この校門前の車道をさらに上っていくと、「史蹟葛城山二之宿観音堂」と刻まれた比較的新しい石碑が見える。そこを右折し、さらに窯元の工場に沿った古道を辿っていく。この道は、佐瀬川の里に通じるかつての生活道路だが、今は軽トラがやっと走れる農業用道路に化している。数分で右手に古池、そして、左手の踏み跡の向こうに第二方便品の経塚がある。
 この経塚周辺は江戸時代まで隆盛を誇っていた神福寺の寺院跡で、『葛城先達峯中勤式廻行記』(1709年実相院大先達秀仙)によると、「観音堂、行者堂、金剛童子、座禅石、方便品ノ石、善女龍王ノ池」が記されている。先の古池が「善女龍王ノ池」(『葛城峯中記』では「深虵池」)と見られ、今も残っている神福寺の痕跡はこれくらいである。ただ、この寺院が廃絶したあと、1.5km南にある西庄の西念寺に引き継がれたようだ。十一面観音と役行者が祀られている西念寺観音堂の前に灯籠があり、「葛城山二ノ宿永代文化二年三月」と銘がある。さらに、手洗石には「葛城二宿貞享二年二月」と刻まれ、神福寺からここに移転されたことがわかる。
 『葛城峯中記』などによると、江戸時代までは、加太から尾根伝いに東進すると第二方便品の経塚がある神福寺に最短距離で到達できた。現在は、つつじが丘をはじめとする住宅地が造成されて風景は一変、かつてのルートを辿ることは地理的に不可能となっている。

【佐瀬川慈眼院から孝子金輪寺】
 一方、第二経塚から、北進し佐瀬川の里に入る。この集落には慈眼院があり、『和泉名所図会』にも、役行者が海浜で拾った霊木から作った観音であると記されている。二ノ宿の佐瀬川から甲山を巻いて、横手の三ノ宿八王子社をめざす。甲山山頂が行場との係わりはなさそうだが、西に紀伊水道、東に和泉山脈と山頂からの眺望はすばらしいので、是非、立ち寄られたい。横手の集落入口に三叉路があり、八王子社を示す標識の先に三輪神社がある。八王子社は、もともと孝子越えにあったものが、ここへ移されたらしい。孝子越えを歩くには、たくさんの石仏が安置された小堂を目印に、その脇の峠道を進んでいく。
 峠を越え(孝子越え)孝子に入るが、こちらの金輪寺も三ノ宿となる。金輪寺は、1691年、黄檗山萬福寺の末寺として黄檗宗(禅宗の一派)に改宗されているが、本尊釈迦牟尼仏は、飯盛山千間寺が信長の兵火にかかった際、村人によってここ金輪寺に運び込まれたと縁起に記されている。朱色に塗られた中国風の三門にまず目を奪われるが、境内は高台にあって見晴らしがよく、南海電鉄本線を挟んでちょうど真東に高野山(たかのやま)が望める。この南麓に高仙寺があり、上孝子の集落から標高差約40mの本堂に至るには、「禁殺生」と彫られた巨石におののきながら長い石段の参道を登っていく。ここからすでに、高野山及び飯盛山登山が始まっている。

 
この石標を目印に右折し道なりに進んでいく   第二経塚(神福寺跡)
 
西念寺観音堂   観音堂前の石灯籠や手洗石に「葛城二宿」の銘
 
慈眼院観音堂(佐瀬川)   慈眼院石地蔵(佐瀬川)
 
猿越峠付近   甲山山頂から和泉山脈を望む
 
横手の里西入口の三叉路   八王子社(横手・三輪神社)
 
石地蔵の祠を目印に孝子越え   祠に安置された石地蔵(横手)
 
金輪寺山門(孝子)   金輪寺境内から高野山を望む(右山麓に高仙寺)

【高仙寺から飯盛山】
 高仙寺の本尊は秘仏十一面観音で、「孝子の観音さん」として信仰を集めてきたようだが、現在は、ひっそりとした山寺である。もとは真言宗で、江戸時代に曹洞宗永平寺派に転宗されている。四ノ宿であった名残か境内には行者堂もあるが、本堂左奥の役行者像の石祠と共に「役行者母公之墓」の石標が建ち、石が積み重ねられている。ちなみに、墓の谷行者堂にも「役行者母公之墓」が伝わっている。
 飯盛山山頂(384.5m)付近には、千間寺(あるいは飯盛寺)という寺院があったが、信長の雑賀攻めや秀吉の根来攻めによって焼失したという。山頂南側の窪地には井戸が残り、付近には古い瓦などを見つけることができる。高仙寺から飯盛山ヘは、上孝子の集落を抜けて川沿いの道がついているが、利用者が少ないのか雑草が伸びて足場に困る箇所もある。むしろ、高仙寺の背後から高野山を経て尾根伝いに伸びている山道こそ、峯中修行として使われたであろうお薦めのコースである。

【鳴瀧山圓明寺・四ノ宿行者尊】
 飯盛山山頂をUターンし、今度は南東に延びる山道をとると札立山(349.2m)である。札立山山頂を起点に、さらに西へ尾根伝いに進むと第三経塚の大福山、南へ下ると鳴滝山圓明寺に至る。この寺の縁起には、役行者が法華経第三巻比喩品を埋めたところが鳴瀧不動尊で、葛城二十八宿第三経塚の地であることが圓明寺の始まりとしている。創建は13世紀頃で、根来寺の末寺となったが、秀吉による紀州征伐の時に根来寺と同様焼き討ちに遭い七堂伽藍を失っている。現在は、臨済宗妙心寺派の末寺として、「鳴滝のお不動さん(鳴滝不動尊)」の名で親しまれているようだ。圓明寺本堂からは、鳴滝川に沿って上流に「不動滝」「不動堂」「護摩堂」などがあり奥の院といった場所である。4月28日には柴燈大護摩供が催されているようだ。
 鳴滝川の西側は善明寺という地名だが、そういう名の寺院は今はない。 ただ、「楠見行者前」というバス停の数百メートル北に「四ノ宿行者尊」がある。住宅地の造成によって引っ越しを余儀なくされたのだろうか、山の中腹に幾つもの石仏や神棚が寄せられている。その1つに、ひときわ立派な行者窟が設けられ、役行者の石仏が鎮座する。この地の案内板には、「当地に古来、真言宗泰平山善明寺在り。昔より方二間半の観音堂在り。四乃宿行者尊と共に観音信仰の一大道場でありしが、天正十年の兵火にて焼滅し、その後当地に再建する事あたわず。」とあり、圓明寺同様、信長・秀吉の紀州攻めによるものだろうか。四ノ宿は、高仙寺と同じ宿番であるが、二十八宿の巡拝に幾つものルートがあったのか、それとも時代によってルートの変遷があったのだろうか。

 
高仙寺本堂   「大乗妙典」の石標と右手に役行者の母公の墓を示す案内板
 
飯盛山頂   飯盛山頂の石祠には釈迦如来を表すバクの梵字
 
千間寺あるいは飯盛寺の井戸跡か   やはり千間寺あるいは飯盛寺の古瓦か
 
鳴瀧不動の行所   鳴瀧不動堂
 
四ノ宿行者尊を示す標識   立派な祠に安置された役行者石像
 
この地域の石仏が集められたのか   秀吉の紀州攻めで焼かれた善明寺は観音道場だったという