● 第二十七経塚「妙経妙荘厳王本事品」(みょうしょうごんのうほんじほん)

第二十七経塚(香芝市)

【 妙経妙荘厳王本事品第二十七】  ※要約
  仏教を信仰していた兄弟が、バラモン教徒である父が喜ばないだろうと、釈尊がバラモン教徒を教化する際に現した「舎衛城神変」と同じ奇跡を見せて、父を説得する。そして、息子たちが見せた奇跡に大いに満足した父は、自らも仏教徒になったという話。

【日本遺産】 葛城修験(構成文化財)
 逢坂 妙荘厳王本事品(第二十七経塚)、どんづる峯、穴虫峠の馬頭観音

文献

引用・抜粋文

『葛城峯中記』
(室町時代初期)
鎮永/千勝院

百四 普賢嶽 火舎嶽 大般若 如法經
百五 大坂捌下 妙荘嚴王品第廿七 八部山長谷寺 觀音断木 柏原天皇石塔十三重鴈岩窟石塔一基、・・・
百六 常琳寺 阿弥陀 地主八王子東北方十一丁石塔。普賢寺。
百七 十願觀音終。
百八 亀尾宿 勸発品第廿八 岩崛去文字甲在也。五輪河中石ニ鮮二見也。宝篋印塔双ヒテ之ニ在り。常ニ水中ニ有ル故見エズ、于水ニハ拝見申也。

『葛嶺雑記』
(江戸時代後期)
智航/
犬鳴山七宝龍寺

逢坂の経塚
同国郡村中にあり
妙荘巌王本事品第二十七之地
千年経るかたちもこゝにあふさかの経つかみればいかにこれかも

【以下の文献より引用・抜粋】
●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録

 早速だが、第二十七経塚は、住宅地の真ん中にある。しかも、民家の庭の中。したがって、個々にその経塚を拝観することは難しい。その家の向かいに大坂山口神社(逢坂)があるので、所在地はわかりやすい。これまで紹介してきた経塚は、山頂や峠、寺院(跡)などが多く、この経塚の所在地は異質である。
 一方、経塚としている十三重の石塔は風化し、屋根の部分はいつしか紛失を繰り返して、現在五層である。それゆえ、五層の座りはどうも落ち着かない様子である。さて、なにゆえ経塚が民家の庭にやってきたのだろう。
 江戸時代後期の『葛嶺雑記』では、「逢坂の経塚 同国郡村中にあり」と記され、どうやら現在地付近に経塚があったようだ。しかし、室町時代初期の『葛城峯中記』では、「百五 大坂捌下 妙荘嚴王品第廿七」と示している。斑鳩宮で死去された聖徳太子の遺体を叡福寺(大阪府太子町)の御廟まで運んだ際の道を、「太子葬送の道(磯長ルート)」と呼んでおり、この太子道の大阪と奈良の境界が「大坂捌(峠)」である。現在は、田尻峠や穴虫峠という名に代わっているが、この峠を挟んで、大阪側の開口部に「飛鳥」、奈良側開口部に「逢坂」という地名が残っているのはおもしろい。その穴虫峠の東2.5kmのところに、もう一つの大坂山口神社(穴虫)があり、先の大坂山口神社(逢坂)とは700mほどしか離れておらず、共に式内社である。
 『日本書紀』の崇神天皇9年3月条に、「天皇の夢に神人有して、誨へて曰く『赤盾八枚、赤矛八竿を以て、墨坂神を祀れ。亦黒盾八枚、黒矛八竿を以て、大坂神を祀れ。』とのたまふ。」とある。崇神天皇は、疫病などの悪いものが奈良盆地へ入って来ないようにするため、盆地東側の街道に墨坂神、盆地西側の街道に大坂神を祀り、疫病が収まったというのである。前者を祀ったのが墨坂神社(宇陀市)、後者は大坂山口神社(香芝市)と伝わっている。
 私見だが、『葛城峯中記』が示す大坂峠下の経塚は、大坂山口神社と関係があり、時代とともに現在の地に移ったのかも知れない。現在の穴虫峠付近には、馬頭観音の石仏が建てられている。この観音像は、交通の難所や村外れなどに祀られることが多く、峠を越えるため牛馬を使った運搬が盛んだったことがわかる。

 
太子道の地蔵磨崖仏   穴虫峠の馬頭観音
 
大坂山口神社(逢坂)   葛木倭文座天羽雷命神社
   
屯鶴峯    

 さて、話は二上山雄岳の第二十六経塚に戻すと、ここから第二十七経塚までどのようなルートを辿ったのだろうか。現在の登山道として、雄岳から近鉄南大阪線二上神社口駅または二上山駅に下りる道がある。前者の登山道は、葛木倭文座天羽雷命神社(かつらきしとりにいますあめのはいかづちのみこと)に至るが、ここは山頂の二上神社遥拝所もしくは里宮的な存在である。一方、後者の登山道を下りると、二上山駅から近鉄大阪線の二上駅に北進、やがて大坂山口神社(逢坂)が目の先である。
 一方、雄岳からダイヤモンドトレールを北進し、先の太子道穴虫峠に下りることができる。現在のダイトレは、尾根筋をたどって穴虫峠よりさらに西400mほどのところの府道に出るが、かつてのダイトレは竹田川の源流に下りて谷沿いに下り、屯鶴峯登山口に通じていた。ただ、現在は砕石場に阻まれ利用することが困難である。穴虫峠から大坂山口神社(逢坂)までは、先の太子道磯長ルートを東進するとよい。