鹿谷寺跡十三重塔(香芝市)
【妙経陀羅尼品第二十六】 ※要約 『法華経』の説法者たちに対して「私たちが守護しましょう」と言って、そのためのダラーニー(呪文)の神呪を説く。 (しかし、原始仏教『スッタニパータ』では、呪法を行うことを禁じている。)
【日本遺産】 葛城修験(構成文化財) 二上山 陀羅尼品(第二十六経塚)、岩屋、當麻寺 中之坊、當麻寺 竹之坊、高雄寺
引用・抜粋文
『葛城峯中記』 (室町時代初期) 鎮永/千勝院
九十二 護法笈石 辨財天 普門品第廿五・・・ 九十三 未曽路多輪 九十四 禪琳寺 八岳 八原ナリ。瀧山ヲ布也。 九十五 當麻寺・・・飛行四天王南金堂役行者。阿彌陀北金堂地蔵尊。 九十六 吉祥尾飛經嶽 九十七 觀興寺 九十八 高尾 薬師 觀音 九十九 萬歳堂 抜戸 烏嶽。 百 向谷 行道所 准識岳 俱舎嶽 百一 二上 陀羅尼品第廿六 二上權現集飯童子・・・。 百二 高雄寺中ヨリ上ル。佛生谷 行道石・・・兩界石・・・。 百三 岩屋切立塔・・・觀念岩屋・・・ 百四 普賢嶽 火舎嶽 大般若 如法經
『葛嶺雑記』 (江戸時代後期) 智航/ 犬鳴山七宝龍寺
二上山当麻寺 浄密両瓜和州葛下郡五条御代官支配所 御朱印三百石大門南向御宿坊真言竹之坊 金堂西向、弥勤、神変大士、不動尊、四天王、吉祥天、 講堂東向、弥陀、不動、毘沙門、地蔵、土面千手宝憧 本堂南向、蓮糸の憂茶羅、中将姫、来迎の弥陀 岩屋の崛 河州石川郡山田支配岩屋峠河和両国地 窟中に切立塔また爪彫り三尊弥陀。い南を観念窟といふ。四五丁西に、ろく谷といふところあり。十三重切立塔、仏生石、金剛童子、両界石、弥勤三尊等、何れも自然石にその形容をつくりたり。役行者の御作といへり 二上権現 和州葛下郡鎌田、染野、池田、野口等右四ケ村の支配なり 本社南向祭神二座本地勢至 ○修飯童子本地梵相西南佛河秋国界 ○二上が嶽に鎮座し給ふ此尊号は托鉢修行に一切の施を受身心堅固に保ちて苦行するの義 又所名は唯仏与仏同一体を凡聖二ツにならべたてゝさとし絵はんの意 ○一つある修飯のみ世にすがたよく二上岳をうつす日のかげ ○妙陀羅尼品第二十六之地 肩箱のふたかみ山のしら雪を華とみまかふ朝ほらけかな
【以下の文献より引用・抜粋】 ●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録
第二十五経塚のある高貴寺の次は、『葛城峯中記』も『葛嶺雑記』も當麻寺を経由している。したがって、再び平石峠をとって返し竹内街道をめざすことになる。竹内街道は、「難波より京に至る大道を置く」として、613年に整備された日本最古の官道で、いつの時代の修験者にとっても大なり小なり使われた道であろう。ちなみに芭蕉も、門人千里の案内で彼の故郷竹内村を訪れたことを『野ざらし紀行』に記している。 當麻寺は、創建当初、奈良仏教の学問寺院という性格を持っていた。その後、中将姫の願いによって織り表されたという當麻曼荼羅から、「マンダラの教え」を感得した空海は、中院の実弁和尚にその教えを授け、真言宗の寺院となった。 治承4年(1180年)に起こった平家による南都焼き討ちの際、當麻寺も講堂が全焼、金堂も大破し荒廃するが、その危機を救ったのが當麻曼荼羅である。寛喜元年(1229年)、當麻寺を訪れた証空上人が當麻曼荼羅を再評価してから、数々の写本が作られて全国に広がり、「欣求浄土」の象徴として絶大な信仰を集めることとなった。 金堂は寿永3年(1184)に再建され、源頼朝らの寄進によって當麻曼荼羅の厨子が修理され、須弥壇が造られる。講堂も乾元2年(1303)に再建され、正中3年(1326)には金堂の大規模な修理も行われている。 現在は、真言宗五ヶ院(中之坊、西南院、竹之坊、松室院、不動院)に加え、浄土宗の二ヶ院(護念院・奥院)が當麻寺の護持・運営に携わっている。 鎮永(千勝院)や智航(犬鳴山七宝龍寺)が訪れた當麻寺は、南都焼き討ちで荒廃した當麻寺が復興・再建された後の伽藍であり、今以上の輝きがあったのかも知れない。智航の『葛嶺雑記』には、二上山当麻寺の項で「御宿坊真言竹之坊」とあり、葛城の修験者にとっては竹之坊が行所であり宿泊地であったようだ。 『葛城峯中記』では、「九十八 高尾 薬師 觀音」「百二 高雄寺中ヨリ上ル。」と、「高雄寺」の名が出てくる。7世紀後半、役行者によって開かれ、後鳥羽天皇・後白河天皇の勅願寺として、最盛期は「高雄千軒」と呼ばれるほどの繁栄を見せたという。當麻寺の北にあり、現在は礎石を残すのみだが、収蔵庫には、薬師堂の薬師如来坐像(重要文化財)、観音堂の観音菩薩立像(重要文化財)が収められ、共に平安時代の作とされている。跡地の観音堂石碑には、焼失前の写真が貼り付けられており、往時を偲ぶことができる。
さて、當麻寺から二上山頂の第二十六経塚をめざす場合、現在、幾つもの登山ルートがある。室町時代初期の『葛城峯中記』には、すでに「百三 岩屋切立塔・・・觀念岩屋・・・」の記述があり、『葛嶺雑記』にも、「岩屋の崛」として取り上げられている。祐泉寺を経由する登山道は、右の分岐をとると雄岳・雌岳の鞍部に至り、左手をとると岩屋峠に出る。 今も岩屋峠の南に、「岩屋」と呼ばれる高さ6.14m、幅7.6mの凝灰岩の石窟がある。長方形の基壇におかれた凝灰岩製の塔の高さは2.1m、石窟の北壁には三尊像が半肉彫りされており、奈良時代に造営されたものと考えられている。 一方、「岩屋」から西の方向に、国の史跡鹿谷寺(ろくたんじ)跡があり、凝灰岩の山から掘り出した地続きの十三重塔は高さ5.1mで存在感を示している。さらに、その近くの石窟は間口3.06m、奥壁の高さ1.6mで、壁面に蓮華座に坐し円光を負 う如来像の三尊仏が線刻されている。やはり奈良時代の造営と考えられる。 これらの基盤となっている凝灰岩は、高松塚古墳などで使用するため切り出されており、そうした石切場も案内されている。このような凝灰岩の石切場跡を利用して造営されたのが鹿谷寺で、随や唐の時代に中国大陸で多く造られた石窟寺院の影響を受けた遺跡と考えられている。 二上山雌岳南麓に位置する鹿谷寺跡から雄岳山頂をめざす。三角点(473.9m)は雌岳にあり、巨大な日時計とともに眺望が南に開けている。一方、雄岳山頂(517m)には、第二十六経塚以外に、葛城坐二上神社、大津皇子二上山墓が祀られており、こちらは聖域の様相である。第二十六経塚は、照葉樹の木陰に自然石を組んだ造りになっているが石碑のようなものはない。ただ、風化した狛犬が置かれていたり、石灯籠が一対建てられているのは不自然だなと思った。1974年(昭和49)の二上山大火で二上神社社殿が焼失し、翌1975年に再建されたのが現在の社殿だが、おそらく、その時の遺品が経塚と一緒に祀られているのかもしれない。 かつては、雌岳に深蛇大王(嶽の権現)が祀られ、水神として庶民信仰と結びついたそうだが、近年、「嶽の権現」は雄岳に遷ったのか、こちらの二上神社が二上山の水流を利用する「嶽の郷」の氏神的存在である。毎年、旧暦3月23日には、二上山麓周辺地域の人々が「嶽のぼり」と称して二上山へ登り、五穀豊穣を願って雨が降る事をお祈りし山頂でごちそうを食べて新緑を楽しむ行事だったそうだ。しかし、最近は、二上山美化促進協議会主催による清掃活動を兼ねたイベント(4月実施)に取って代わりつつある。