● 【葛城二十八宿】第二十五経塚「妙経観世音菩薩普門品」(かんぜおんぼさつふもんほん)

高貴寺惣門(河南町)

【妙経序品第二十五】  ※要約
  「観世音菩薩」の名前を呼ぶだけでご利益がある。例えば、大火の中に落ちても火傷をしない、死刑判決を受けても死刑執行人の剣が粉々に砕ける、財宝を運ぶ隊商は盗賊の恐怖から解放される、男子誕生を願う女性には男子が、女子誕生を願う女性には女子が生まれる、などなど。

【日本遺産】 葛城修験(構成文化財)
 高貴寺香華畑 観世音菩薩普門品(第二十五経塚)

文献

引用・抜粋文

『葛城峯中記』
(室町時代初期)
鎮永/千勝院

八十八 神旡多輪 妙音薩品第廿四・・・
八十九 着給跡石有。・・・
九十 鉾立ヨリ東ノ谷へ下ル伏越里也。號伊勢宿。・・・鉾立左西へ下ルハ廣川寺江下レハ北ニ見初塚有、神下江往着也。高貴寺ノ石藏院本堂ハ
九十一 五大尊。左卅番神。
九十二 護法笈石 辨財天 普門品第廿五・・・
九十三 未曽路多輪
九十四 禪琳寺 八岳 八原ナリ。瀧山ヲ布也。
九十五 當麻寺・・・飛行四天王南金堂役行者。阿彌陀北金堂地蔵尊。

『葛嶺雑記』
(江戸時代後期)
智航/
犬鳴山七宝龍寺

神下山高貴寺 
同国同所真会伴
本堂五大尊古記に神変大士の御作としかあれども里民は弘法大沙の作なりといへり
鎮守磐舟明神此所より二十余丁山上に久米のいわはしあり不動明王立せたまふ
又経塚は香華畑なるぢざう堂のまへに石塚二基有。其小さき方かも。
妙観世音菩薩普門品第二十五之地
畑中にもしやそれかと袖ぬきて法の衣ほす五月雨のころ

『河内名所図会』
(1801年/享和元年)

神下山高貴寺
平石村にあり。宗旨真言律。門前に大界外相の標石を建る。是より女人結界なり。坊舎四宇

叡福寺普門石
金堂の西にあり、葛城登山の修験者の行場とす。むかし、役小角法華二十八品に准じて二十八區の佛龍を闢く。なかんづく、当山を其の第二十五普門品に宛て、すなはち皇太子を観音の垂跡とす。故に当山を普門寺といふわ此謂なり。

【以下の文献より引用・抜粋】
●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録

 

 平石峠から大阪側に下ると、平石の集落から伸びてきた車道に出るが、そこに「かうきじみち、是より三丁」と刻まれた石標がある。車道に沿って上っていけば高貴寺の山門が目に入る。右手には「大界外相」「禁女人入門内」と刻まれた石碑が建ち、修行場であることを示している。
 高貴寺は、山門前の説明板によると、二十八経塚の一つとして役行者開創と伝わるが、平安時代、勅命によって弘法大師が堂塔を建立し、弟子の智泉大徳に譲与された。南北朝の戦いで、楠木側に組みする平岩氏の平石城が攻められた時に伽藍も焼失し、以後数百年法燈も振るわなかった。しかし、慈雲尊者が、安永5年(1776年)から 30年にわたって留錫して伽藍を修築、当寺中興第1世とされている。さらに、尊者は神道を究明して葛城神道を興し、十善の道を説いて十善法語十巻を著した。現在は、金堂(五大明王像)、講堂(辯才天)、開山堂(慈雲尊者像)、奥の院御影堂(弘法大師像)と立派な伽藍を残す一方、真言律座禅道場など修行場としての趣が強い。
 さて、第二十五経塚は、本堂と講堂の間を通って奥の院の方に向かう途中にある。大きな岩を背にして、二つの祠があるが、『葛嶺雑記』によると左側の小さい方を経塚としている。

『河内名所図会』より高貴寺

 
石標「かうきじみち、是より三丁」   高貴寺坊舎
 
高貴寺本堂   高貴寺講堂
 
第二十五経塚(左側の祠)   高貴寺法華塔

 高貴寺の山門から左手に伸びる参道があり、徒歩10分ほどで磐船大神社に至る。境内の説明板によると、「𩜙速日命十種のみたからを奉じ、天磐船に乗りて河内国河上の哮峰に天降り給う」という故事により、主神は𩜙速日命で、山全体を御神体とする神奈備形をとってきた。先の慈雲尊者は、葛城神道を創唱するにあたり、ここを根本道場としたようだ。明治元年(1868年)、神仏分離により、高貴寺の鎮守であった磐船大神社が分離された。
 境内には、天磐船を思わせる巨岩などが祀られており、背後の峰は遠方から望むと美しい円錐形をしていて、まさに神奈備にふさわしい山容である。

 ところで、『河内名所図会』 に気になる記載がある。叡福寺普門石の項に、「金堂の西にあり、葛城登山の修験者の行場とす。むかし、役小角法華二十八品に准じて二十八區の佛龍を闢く。なかんづく、当山を其の第二十五普門品に宛て、すなはち皇太子(聖徳太子)を観音の垂跡とす。故に当山を普門寺といふわ此謂なり。」とあり、この普門石を第二十五経塚としている。享和元年(1801年)発行の書籍だが、もう一つの経塚説である。

 西行法師は、晩年、私淑した座主の空寂上人を訪ねて弘川寺を来訪し、「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」の歌を詠んだ文治6(1190)年、73歳で入寂された。弘川寺は、寛正4年(1463年)、嶽山城の戦いで、当寺に本陣を置いていた河内守護畠山政長が、敵の畠山義就の逆襲を受け伽藍を焼失する。その後復興し、江戸時代の寛延年間に、この寺を訪れた歌僧似雲が西行堂を建立した。西行の墳墓は、さらにその上に造られている。西行に縁のある寺ゆえ、見事な桜を期待したいものだが、庭園のソメイヨシノの大木が、開花期にはその期待に応えてくれる。

 
聖徳太子御廟   叡福寺普門石
 
磐船大神社   磐船大神社(天磐船を思わせる巨岩)
 
磐船大神社のある神奈備山   弘川寺西行堂
 
弘川寺のソメイヨシノ   西行墳墓(弘川寺)