● 【葛城二十八宿】 第二十二経塚「妙経嘱累品」(ぞくるいほん)

第二十二経塚(御所市)

【妙経嘱累品第二十二】  ※要約
  地涌の菩薩だけでなく、残りのすべての菩薩に付嘱がなされる。釈尊と菩薩たちは、虚空から地上の霊鷲山に戻っていく。分身の諸仏も元いたところに戻り、多宝如来も宝塔も地下に戻っていく。地涌の菩薩たちも戻っていき、すべてが元通りに復帰する。そこにいた人たちは、今まで見たこともないことがあったと歓喜し、経典はフィナーレを迎える。

【日本遺産】 葛城修験(構成文化財)
 水越多和 嘱累品(第二十二経塚)

文献

引用・抜粋文

『葛城峯中記』
(室町時代初期)
鎮永/千勝院

七十七 雪室寺 他所道非ス、一所可住也。篠多輪。
七十八 朝原寺 卅番神 辨財天 金剛童子 熊野權現 藥師・・・一言主明神・・・北ノ谷ヨリ嶺筋へ登ル也。伏見寺八幡 高天寺觀音遍照院梅有り
七十九 水越宿 屬類品第廿二
八十 水越多輪・・・水分 廿町計登、兒墓也。界那寺屋敷斗也。地主

『葛嶺雑記』
(江戸時代後期)
智航/
犬鳴山七宝龍寺

朝原寺
 金剛山の坊中也。修理なく堂内雨を浸して神變尊自画の御影も所在不知、本堂薬師葛木社。
水越経塚
 
和州葛上郡関屋村の水越さわの地蔵是也 妙屬累品第二十二之地

【以下の文献より引用・抜粋】
●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録

 金剛山頂からダイヤモンドトレイルを北進し、途中から西へ折れ「関屋道」を下る。この道も町石が配置されており、今もいくつか確認できる。「日の石」と呼ばれる花崗岩の巨石を通過し急坂を下ると、近年、発生したかと思われる土石流の痕跡に遭遇する。そうすると間もなく朝原寺跡である。朝原寺は、土石流の発生した沢沿いに立地しており、やや高台にあってかろうじて災害から免れているのは、先人の知恵の証だろうか。
 この寺院跡には、現在、石垣ぐらいしか残っていないものの、この山中にして広大な平地を確保している。また、寺院跡の東にあるやや小高い丘には、当時の僧侶のものと思われる墓石などが見られる。『葛嶺雑記』の朝原寺の項では、「金剛山の坊中也。修理なく堂内雨を浸して神變尊自画の御影も所在不知、本堂薬師葛木社。」とあり、金剛山七坊の一つに数えられたものの、幕末にはすでに荒廃しつつあったと読み取れる。山中の土となる前に、釈迦如来像は東長柄の浄泉寺に、手水舎は長柄神社の境内に、そして、板襖は龍正寺の庫裏に持ち出され、かろうじて往事を忍ぶことができる。ただ、長柄神社の手水舎は、2024年3月現在、柱の根が腐り崩壊寸前である。
 朝原寺跡からそのまま直進(東進)すると井戸集落に至るので要注意。寺院跡から左折し北進する。登山道を下っていくと、左手に大きなU字側溝のような溝が続くが、それがかつての参詣道だと思われる。国道309号線が近づいてきたのか坂道を上るバイクのエンジン音が聞こえてくる頃に、第二十二経塚の大田和地蔵に到着する。花崗岩の石壇の上に立派な祠が設けられ、なかには風化した石地蔵が安置され年代は分からない。経塚であることとこの石地蔵に因果関係はうすいと思われるが、関屋集落の人たちによって、この場が長年聖域として大切にされてきたことにちがいない。大きな杉の木が数本、見守ってきたようである。
 この先は、尾根上の古道が関屋集落の真ん中を直進していたようだが、現在は荒れ通行不可である。ただし、関屋集落内に「左こんがうさん」と記された石標があり、このあたりに古道が通じていたと思われる。県道30号線(通称山麓線)に向かって進んでいくとY字路があり、その左手に造園業の資材置き場があるが、そこに関屋道の町石が3本ほど置かれている。山麓線(県道30号線)を横断して南下すると、龍正寺や長柄神社に至る。

 
関屋道四十三町石   関屋の大石
 
朝原寺跡   朝原寺跡
 
龍正寺の板襖   長柄神社の手水舎
 
関屋集落内の石標「左こんがうさん」   関屋道一・二・三・六町石
 

葛木水分神社
水分神は田畑の潅漑を司る神で川の水源地の近くに祀られており、ここは天水分神、国水分神の二神を祭っている。

 

祈りの滝
昔、役の行者が、葛城山へ修行にゆく時にこの滝で身を清めて衆生済度の祈りをこめたところだという。