● 【葛城二十八宿】第二十一経塚「妙経如来神力品」(にょらいしんりきほん)

転法輪寺れんげ祭り

【妙経如来神力品第二十一】  ※要約
  滅後の弘教の付嘱が、まず地涌の菩薩に対してなされた。そして、釈尊ゆかりの地を実際に訪ねることよりも、『法華経』を実践していること(場所)こそが大事なのだと、釈尊は、地涌の菩薩のリーダー四人(上行、無辺行、浄行、安立行)に対して述べた。
道元は、この一節を非常に重視し、自身が寝起きしていた庵を「妙法蓮華経庵」と名付け、この一節を臨終の間際に何度も口にしたという。自分が今『法華経』を読誦しているところこそが、釈尊ゆかりの場所(聖地)であるという思いを抱いていたのであろう。

【日本遺産】 葛城修験(構成文化財)
 如来神力品(第二十一経塚)/転法輪寺/転法輪寺 れんげ大祭/多聞寺跡

文献

引用・抜粋文

『葛城峯中記』
(室町時代初期)
鎮永/千勝院

七十四 石寺 薬師三尊 弥勒三尊・・・常不輕菩薩品第廿 虵多輪。
七十五 秋尾寺・・・涌出嶽 神力品第二十一 未出光童子 金剛山寺 朝日嶽 常行童子
七十六 東ニ葛城明神。橋立 岩屋 文珠 大黒 求聞持所 大宿坊 行者堂下閼伽井 西国見有。
七十七 雪室寺 他所道非ス、一所可住也。篠多輪。

『葛嶺雑記』
(江戸時代後期)
智航/
犬鳴山七宝龍寺

金剛山轉法輪寺
本堂、不動尊、左脇に法起、右脇に蔵王、其余倶利伽羅、新迦羅、制多迦、善財童子等すべて七尊本堂の前に深蛇大王
開山堂に神変大士、東に三十八社、西北に大黒堂、南に求軍持堂
、大宿坊の北に朝日かたけあり、今は大日か嶽といふ。大宿坊は大和国にあり、其余の僧舎皆以て河州石川郡の地にあり。
(中略)
金剛山より、石寺に至らんとなす道、左に入る。湧出嶽経塚あり。妙如来神力品第二十一之地
出で給ふ佛ともなく神となく経読く聞けば山彦の声

【以下の文献より引用・抜粋】
●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録

 石寺跡をあとにし、さらに登っていくとダイヤモンドトレール(以下、ダイトレ)に合流する。ここが伏見峠である。ダイトレに沿って北上すると、まもなく、ちはや園地の施設が目に入る。積雪期などは、大勢の人々の賑わいを前に、ここが山頂かと錯覚してしまうが、車も通行できる車幅の道をさらに北進する。やがて、一の鳥居にさしかかる。湧出岳山頂及び第二十一経塚へは、その数十メートル手前に、山頂への登り口がある。また、数百メートル手前にも山頂への細い進入路がある。
 金剛山山頂付近には、湧出岳(1112m)、葛木岳(1125m)、大日岳(1094m)などのピークがあり、このうち三角点は湧出岳にのみある。最高地点の葛木岳は、現在、葛木神社の神域にあり入山できない。湧出岳山頂には、関西電力送配電金剛山無線中継所の電波塔や金剛山展望塔保存会の展望塔などが存在する。かつて、第二十一経塚は三角点付近にあったそうだが、山頂が色んなもので賑わう過程で、現在の場所に移ったようだ。それゆえか、第二十一経塚では石積みの上に花崗岩の立派な石碑が建てられている。

 江戸時代末期に刊行された『大和名所図会』(1791年)には、当時を忍ぶ転法輪寺(金剛山寺)の大伽藍が描かれている。また、江戸時代の儒学者貝原益軒(1630-1714)の『南遊紀行』によると、当時の賑わいを以下のように記している。
「是山伏の嶺入りして修法する所なり。僧寺六坊あり。皆家作美大なり。大和・河内の農民此神を甚だ尊崇し、社の下の土を少しばかり取りて帰り、我田地に入るれば稲よく実りて虫くはずとて、参詣の人夥し。皆宿坊有りて、宿する者多し。檀那にあらざれば宿を借さず。葛城の社は山のいと高き頂上に在りて、大和国なり。金剛山の寺院は西の方の少しひきき所に在りて、河内国なり。葛城の本社の少し西に石不動を立てたり。是大和・河内の境なり。」

 金剛山寺(転法輪寺)は、五堂(本堂・大日堂・庚申堂・大黒堂・虚空蔵堂)と宿坊の役割を果たす七宇(大宿坊・長床坊・実相院・行者坊・西室院・石寺・朝原寺)の脇寺から成り立っていた。(転法輪寺Websiteより参照。また、『大和名所図会』に記されている「僧寺六坊」は、大宿坊を除いた六坊を指すと思われる。)また、これら以外に、「金剛山七坊(修道寺・坊領寺・多聞寺・朝原寺・高天寺・石寺・大沢寺)」という寺院のくくり方もある。
 しかし、明治新政府の神仏分離令(1868年)や大教宣布(1870年)によって、廃仏毀釈運動と呼ばれた仏教施設の破壊活動が起こる。さらに、その後の修験道廃止令(1872年)も追い打ちをかけた。葛城修験道の中心であった転法輪寺も例にもれず、解体を余儀なくされる。明治4年(1871年)、本尊の法起菩薩は金剛山麓にある脇寺六坊の首座「行者坊」の地福寺(現・奈良県五條市久留野町)に移され、明治5年旧暦6月7日以降、蓮華大祭もこの寺院に引き継がれた。それまで金剛山参りをしていた人たちも、ご本尊の移動によりこの寺院を訪れるようになり、戦後しばらくはたいへんな賑わいだったようだ。ただし、勧請した法起菩薩は破損甚だしく、現在の親仏は明治9年に(1876年)造顕されたものである。
 一方、転法輪寺本堂があった場所には葛木神社だけが残った。役行者は、開山時、自身の祖神である一言主大神を祀る葛木神社を鎮守としてあわせ祀ったとされている。昭和25年(1950年)、役行者1250年忌に転法輪寺の再興事業が始まり、大日堂のあった場所に(葛木岳山頂の北西斜面)、昭和36年(1961年)、本堂が落慶された。さらに、平成12年(2000年)より始まった転法輪寺ご本尊復刻遷座事業は、平成23年(2011年)に結願を迎え、本堂と共にご本尊法起菩薩が鎮座する。今の売店があるところに、かつて行者坊があったが、そこに、かつての法起菩薩の胎内仏を隠してあったそうだ。その胎内仏は、現在、新しい法規菩薩の胎内に無事移され祀られている。

『大和名所図会』より
 
転法輪寺   葛木神社
 
第二十一経塚   湧出岳三角点

 大阪側からの参詣道には、千早本道がある。この登山道を歩いていると、何体もの石仏に出会う。これらは、「千早」交差点の地蔵堂を起点に町石を兼ねた十三佛で、閻魔大王で知られるように死者を裁き冥界への審理に関わる「十三佛信仰」の仏である。これらの石仏から、「明暦二年四月吉日」の銘を読み取ることができる。西暦だと1656年で、将軍徳川家綱の頃である。江戸時代には、盛んにこの道が使われたと想像する。
 千早本道の起点である地蔵堂から少し下り、郵便局を過ぎたところを右折して細い道を上っていたところに大きな御堂がある。この辺りが多聞寺跡とされている。跡地に建つお堂には、鬼子母神やお地蔵さん、阿弥陀如来などが祀られ、今でも修験者たちが立ち寄っている。
 また、文殊尾根の先に岩屋文殊がある。約1000年前に奉杞された知恵の守文殊菩薩が祀られており、楠木正成も信仰して知恵を授かったと伝わる。一説には、ここが第二十一経塚ではないかとも言われている。

 
多聞寺跡   坊領山千軒跡
 
岩屋文殊   千早本道13佛(起点石仏)