第20経塚石寺跡(御所市)
【妙経常不軽菩薩品第二十】 ※要約 常不軽菩薩は、出家の男女、在家の男女だれであれ、出会う人ごとに近づいて次のように告げた。 「尊者がたよ、ご婦人方よ、私はあなた方を軽んじません。あなたがたは、軽んじられることはありません。あなたがたは、すべて菩薩としての修行を行いなさい。あなたがた、正しく完全に覚った尊敬されるべき如来になるでありましょう。」 この菩薩は、これまで重視されてきた経典の受持、読誦、解説、書写など一切せず、ただ会う人すべてに「私はあなたを軽んじません」と言うだけであった。このようなふるまいに、四衆たちのほとんどすべてが怒り、危害を加え、嫌悪感を示し、罵り、非難した。 実は、この菩薩、それまで『法華経』を知らなかったのだ。臨終の間際となった時、空中から『法華経』の声が聞こえてきた。それを受け止め、六根清浄を得て「まだ死んではいられない、もっと生きなければ」と寿命を延ばし、そこからはじめて経典としての『法華経』を説くようになったという。経典を読まないこの菩薩の振る舞いが『法華経』の理想に適っていたということは、仏道修行の形式を満たしているか否か、あるいは仏教徒であるか否かさえも関係なく、その人がどんな相手のことも尊敬するのなら、その人は『法華経』を行じていることになる。そして、最後に、この常不軽菩薩が、実は現在の釈尊であったことが明かされている。 宮澤賢治が、『雨ニモマケズ』でソウイウモノニワタシハナリタイとしていた「デクノボー」は、この常軽菩薩をモデルにしていると言われている。
【日本遺産】 葛城修験(構成文化財) 地福寺/草谷寺/大澤寺/常不軽菩薩品(第二十経塚)
引用・抜粋文
『葛城峯中記』 (室町時代初期) 鎮永/千勝院
六十九 大澤谷 葵宿 谷ヲ登ニ往ク。神福寺 柳宿池前 鷲岩崛 禮盤石 法師功コ品第十九 神福山 常光童子 東左ニ付テ往、鬼多山アリ。左江往ハ下ニ薬師堂見ル也。 七十 辰尾寺 御作薬師。 七十一 鳳凰寺 七十二 艸谷留 岸野観音・・・久留野 小和ヨリ登。 七十三 呂師宿 戒溜瀧 七十四 石寺 薬師三尊 弥勒三尊・・・常不輕菩薩品第廿 虵多輪。
『葛嶺雑記』 (江戸時代後期) 智航/ 犬鳴山七宝龍寺
石寺 本堂薬師と日光月光佛、又弥勒文珠普賢、開山堂御作の神変大士、御壮年の像もあり、小野望作。三十八所明神、経塚石 妙常不軽菩薩品第二十之地 石寺に緑の色の真木葉たつ華の盛りを見るよしもがな
『大和名所図会』 1791年(寛政3) 秋里離島・作 竹原信繁・画
石寺 此寺も金剛山七坊の内なり。本尊は石佛の薬師如来。これは役行者百済国より負い来たり給ふといい伝ふ。このゆゑに石寺と号す。境内は方十町余あるよし。役行者堂、葛城明神、金剛童子、辨財天社、鎮守二十八新社あり。
【以下の文献より引用・抜粋】 ●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録
『葛城峯中記』によると、神福山の第十九経塚を巡礼したあと、「東左ニ付テ往、鬼多山アリ。左江往ハ下ニ薬師堂見ル也。」と記している。現在のダイヤモンドトレイルを東進して鬼多山/北山(中葛城山)に至り、南の眼下に見える薬師堂(辰尾寺)に赴いたようだ。現在、辰尾寺という名の寺院は、五條市内に見あたらないのだが、この地域に次のような龍伝説が伝わっており、そこから推測できる寺院がある。
昔、大龍が住んでいて村を荒らしまわった。ある日、一人の修験者が、龍を退治するために祈りを始めた。現れた龍は、今にも修験者にとびかかろうとしたが、修験者は手に持った数珠を振り上げてハシッと投げつけた。龍は3つに切れて地上に落ちた。村人は喜んだが、龍の祟りを恐れて、頭、胸、尾それぞれの落ちたところに寺を建立し龍を厚く弔った。今は、それらの寺の跡形もないが、3つの寺の仏像は、北山村草谷寺に残っている。 (編集:奈良県童話聯盟、編纂:高田十郎『大和の傳説』S8.1.15.大和史跡研究会)
龍の頭が落ちたところには、かつての草谷寺があった。今は、龍頭塚の石碑とともに、寺院の石垣やかつての修行僧のものと思われる墓碑、石灯籠などが散在する寺院跡が残っている。また、龍の胴が落ちたと思われるところには、龍胴塚の石碑が建てられているが、やや平坦な地形であるものの、もはや寺院跡らしきものは見当たらない。 さらに、龍の尾が落ちたところであるが、ここが『葛城峯中記』の辰尾寺に当たると思われ、現在は、岸野山草谷寺という寺院があり、その裏山には龍尾塚がある。先の龍頭塚にあった草谷寺がいつしか廃寺となり、辰尾寺に併合されて現在の新・草谷寺に至ったのであろう。境内の北側に収蔵庫が建てられ、平安時代の作といわれる本尊の薬師如来坐像、木造薬師如来立像、不動明王坐像 (いずれも国の重要文化財)の仏像が安置されており、いずれも重要文化財である。これらの中には、旧・草谷寺から移された仏像もあるのではないだろうか。 さて、歴史を紐解くと、明治新政府の神仏分離令(1868年)や大教宣布(1870年)は、結果的に廃仏毀釈運動と呼ばれた仏教施設の破壊活動を引き起こしてしまう。さらに、その後の修験道廃止令(1872年)も追い打ちをかけた。葛城修験道の中心であった転法輪寺も例にもれず、解体を余儀なくされてしまうが、明治4年(1871年)、本尊の法起菩薩は金剛山麓にある脇寺六坊の首座「行者坊」の地福寺(現・奈良県五條市久留野町)に移された。明治5年旧暦6月7日からは、早くもこの寺院で第1回蓮華大祭が行われている。その後も、地福寺では、役行者の命日に行われる蓮華祭りが受け継がれ、それまで金剛山参りをしていた人たちも、ご本尊の移動によりこの地を訪れるようになった。戦後しばらくもたいへんな賑わいだったそうだが、現在も7月7日に地元の信者たちを集めて護摩がたかれている。
五條市側からの金剛登山道といえば、最近では、もっぱら「天ヶ滝新道」が使われている。このルートは、林業のために拓かれた道であり、戦後、登山道として整備された。しかし、それ以前は、「天ヶ滝新道」の東側に並行して延びる「石寺道(小和道)」が、五條側からの参詣道であった。『大和名所図絵』(1791年刊)には、先達に導かれて金剛山を登る行者たちが描かれており、江戸時代、金剛山が霊山として賑わったことがわかる。挿図の右上には、源兼昌(平安時代後期の歌人)の歌「かつらぎや木の間に光る稲妻は 山伏の打つ火かとこそ見れ」があてられているが、これは能「葛城 (かずらき)」の中の一節である。挿絵の陽気な新客たちと、この歌は少々不釣り合いのような気もするが。 「石寺道(小和道)」には、江戸時代の名残として、鳳凰寺(小和町)を起点とする町石(一町ごとに置かれた石標)が、今も道沿いに十基ほど残っている。『葛城峯中記』にも、この鳳凰寺が記されており、現在は、大日如来を本尊とする真言宗の寺院が今なお残っている。ここから、県道261号(西佐味中之線)を横断して、金剛登山口に至るが、四町石は農家レストランばあくのお店の前にあり、古道はこちらへ延びていたようだ。以前は、天ヶ滝新道登山口(駐車場)から八町石を経由して、下茶屋跡に至る古道を通行することができたが、2023年現在、通行止めとなっている。その場合、西佐味から下茶屋跡、上茶屋跡に行くことになる。さらに、人工林の中を進んでいくと、「高宮廃寺跡」へ向かう分岐路がある。この寺院跡は国の史跡にも指定されており、奈良時代中期の瓦が出土し、金堂や塔の礎石も残っている。この出土遺構と同規模である当麻寺金堂や百済寺三重塔をイメージするとよいようだが、こんな山中に驚くばかりの伽藍である。ただ、渡来系小豪族高宮氏の氏寺跡とする確かな根拠はなく、南葛城郡誌においては「水野寺」と記されている。 町石のある古道へは、宮廃寺跡から元来た分岐路まで戻り、左手の登山道を進んでいく。やがて、道中に、人の手が加わったと思われる高さ二メートル余りの巨石が目に入る。ここが石寺跡であり第二十経塚である。『大和名所図絵』には、「この寺も金剛山七坊の内なり。本尊は石佛の薬師如来。これは役行者百済国より負ひ来たり給ふと云ひ伝ふ。このゆゑに石寺と号す。境内は方十町余あるよし。行者堂・葛城明神・金剛童子堂・辨財天社・鎮守三十八所社あり。」といった解説があり、大きな伽藍であったことがわかる。江戸時代後期の『葛嶺雑記』には、「本堂薬師と日光月光佛、又弥勒文珠普賢、開山堂御作の神変大士、三十八所明神、経塚石 妙常不軽菩薩品第二十之地」と記されているが、さらに付け加えられた「石寺に緑の色の真木葉たつ華の盛りを見るよしもがな」から推察するに、往時の賑わいからは遠ざかっていたかも知れない。寺院跡の少し下には、同寺縁の僧侶のものと思われる墓石などが残っており、寛正三年や文明九年(室町時代)の五輪塔がある。墓石には、阿闍梨や法印などの文字も見え、この寺院には修験者の僧侶がいたことが分かる。 小和道は、最近では利用する人も少なくところどころ荒れており、あいさつを交わす登山客も稀である。尾根筋(ダイヤモンドトレイル)との合流が近くなった頃に「欽明水」という名の湧水があり、かっつての旅人の喉も潤したことだろう。花崗岩から成り立っている金剛山の場合、浸食受けた沢の川底では雲母がきらきらと金色に輝いていることがあり、これが「欽明水」の名の由来と想像する。ちなみに、天ヶ滝新道にも同じ名前の湧水スポットがある。今なお残る二十六町、三十五町の町石を見ながら、伏見峠に至る。
「大和名所図会」より