● 【葛城二十八宿】第一経塚「妙経序品」

五所の額(虎島)

【妙経序品第一】要約
 最初に、主な弟子や参列者たちの名前が列挙された。そして、文殊師利菩薩は、『法華経』こそ普遍的な真理が説かれている経典であると説き、釈尊の『法華経』の教えを聞く心構えを参列者の間に導いた。

 「友ヶ島」とは、沖ノ島(おきのしま)・地ノ島(じのしま)・虎島(とらじま)・神島(かみじま)の総称である。友ヶ島汽船で加太港から約20分で沖ノ島野奈浦桟橋に到着する。観光客の多くは、桟橋を渡ると右手に進み、友ヶ島灯台や第1砲台跡方面を目指す。
この島では、シカやリスの姿をよく目撃するが、戦後、観光用にタイワンジカやタイワンリスが放たれたもので、その後も自然繁殖が続いているらしい。2017年9月25日付毎日新聞によると、「大阪府岬町でニホンジカとの交雑が確認されたタイワンジカが、隣接する和歌山市沖の無人群島友ケ島から数キロ泳いで渡ってきた可能性が高いことが国立遺伝学研究所(静岡県)の調査で明らかになった。」と報道されている。交雑が進めば在来種のニホンジカの特徴が損なわれかねず何かしらの対策が必要である。タイワンリスは、ニホンリスより一回り大きく、耳は短く丸い。また、樹液採食のため、樹木を環状に剥皮する習性があるので、島内でも剥奪にあった樹木もよく確認できる。
 友ヶ島の地質は、本州大阪府阪南市から友ヶ島を通って、淡路島の南部さらには四国の徳島県鳴門市につながっている「和泉層群」である。白亜紀後期に、中央構造線の左横ずれの断層運動によって沈降し細長い海盆ができた。そこに堆積した地層が和泉層群で、おもに砂岩と泥岩の互層、ところどころに凝灰岩層をはさんでいる。ちなみに、葛城二十八宿の経塚が多く点在する和泉山脈も、中央構造線の断層運動によってその北側に隆起してできた地形で、砂岩泥岩互層を主とする和泉層群からなっている。したがって、沖ノ島の海岸に打ち上げられている石のほとんどは和泉層群の砂岩で、あと花崗岩や真っ白な凝灰岩の礫が少し見られる。

【深蛇池・剣池】
さて、序品窟へは桟橋から左手の歩道をとるが、坂道を登り切りしばらく進むと、神島を望む遙拝所の立て札が目に入る。神島は、沖ノ島の北に位置する小さな島だが、この島の剣池より神剣を授かった役行者は、島民が苦しめられていた大蛇を深蛇池(しんじゃいけ)に封じたと伝わる。神島をよく見ると、剣池と思われる場所に石碑も見られる。
さらに進むと、右手(南側)にその深蛇池へ下る道がある。深蛇池は面積約2.5ha、水深0.5mの淡水湖沼である。「友ヶ島深蛇池湿地帯植物群落」として和歌山県の天然記念物に指定され、ヒトモトススキやテツホシダなどが自生している。元は深い入り江であったところが砂州で閉じられて出来上がった海跡湖だが、北側3分の2はヒトモトススキなどが繁茂する湿地帯となっている。大阪湾岸に強風や高潮などによる甚大な被害をもたらした2018(平成30)年9月の台風第21号では、深蛇池にも大量の漂着物が流れ着き、発泡スチロールやペットボトルなどのゴミで埋まってしまった。池の真ん中には「深蛇池」と刻まれた石碑が建っているが、その付近に剣が差し込まれているらしく、引き抜くと再び大蛇が暴れ出すと言い伝えられている。
 『紀伊国名所図会』(1812−1851刊)では、深蛇池は海岸に面しており、渡船客を乗せた和船が一艘描かれている。現在は、沖ノ島北側の野奈浦桟橋が玄関口となっているが、江戸時代は、沖ノ島南側の深蛇池あたりが船着き場だったのかもしれない。深蛇池西側に伸びる遊歩道を南下すると、この海岸に出ることができる。

【閼伽井】
 再び島の尾根筋に戻り、虎島を目指す。沖ノ島から虎島に渡る石堤は途中崩れており、干潮時にしかルートが現れないので、あらかじめ渡渉可能な日時を調べておく必要がある。この石堤の沖ノ島側に「閼伽井の碑」がある。この場所に、かつて真水が湧き出ていたのだろうか。ただ、この石碑も2018年台風第21号の高潮によって、石堤下の海岸に転落し半分埋まった状態で発見された。

【序品窟】
 虎島側に渡り、島の西岸にとりつきながら序品窟までのルートを見つけていく。ここも干潮時にこそ大きな危険を冒さず歩行できるが、それでも大小の砂岩がヤスリのように牙をむいているので転倒しないよう注意が必要である。序品窟入口は、人が一人通り抜けることができるほどの割れ目が岩礁に通じており、「胎内くぐり」の形で通り抜けることができる。その中がその洞窟のなかほどに序品第一経塚がある。

 
神島(剣池の石碑が見える)   深蛇池
 
『紀伊国名所図会』巻之三   蒲浦
 
閼伽井跡   沖ノ島より虎島をのぞむ
 
干潮時のみ歩いて虎島に渡ることができる   序品窟の胎内くぐり
 
序品第一経塚   序品第一経塚

【五所額・観念窟】
 江戸時代、紀州藩主徳川頼宣の命令を受け、同藩の蘭学者李梅渓(りばいけい)が虎島に5つの行場を文字で彫ったと言われ、これを「五所の額」という。「禁殺生穢悪・友島五所・観念窟・序品窟・閼伽井・深蛇池・剣池」と読むことができる。「五所の額」が彫られた一枚岩は、和泉層群の砂岩層が大きく45°に傾いてできたもので、友ヶ島に向かう船から、互層となった断面がよく見て取れる。
 修行する団体によっては、序品窟を通り抜け、南岸沿いに観念窟をめざすルートをとる場合もあるようだが、私たちは、もときたルートを引き返し、虎島北側に延びる軍用道跡から観念窟を目指した。虎島にも保塁跡があり、レンガ造りの掩蔽棲息部の遺構が残っている。
 『五所の額』は島の南岸にある断崖絶壁の途中にあり、ロープワークを用いた懸垂下降が必要となる。『五所の額』の横をすり抜けながら、海蝕洞である観念窟に辿り着く。ほぼ45°の傾斜がついた一枚岩は、表面が風化した砂岩でざらついており滑りにくい。ロープを持たずとも上って行けそうだが、万が一転倒すれば海面まで一気に滑り落ちてしまいそうなので、十分な安全を確保しておきたい。
 虎島の東岸には役行者の石像があり、行者と同じ目線に眼を向けてみると、隣の地ノ島、そしてその後方には和泉山脈が続く。第一経塚から、これから始まる残り二十七の経塚巡礼に思いを馳せる絶好のロケーションである。

【迎之坊】
 序品窟をはじめ幾つもの行場が点在する友ヶ島の対岸は加太である。その加太には、かつて伽陀寺(かだじ)という寺院が存在し、その別当を務めていたのが向井家である。加太集落の一角に構えた大きな屋敷は、現在でも、行者たちを迎える「迎之坊」として、その役目が継承されているという。ちなみに、伽陀寺は、南海電鉄加太駅北の段丘上にあったとされるが、今は住宅地となっている。
 一方、加太の漁港を見渡せる高台「阿字ケ峯」には行者堂がある。

虎島東斜面(左端に序品窟、右手の大きな一枚岩が『五所の額』)
 
『紀伊国名所図会』巻之三   「五所の額」が彫られた一枚岩
 
観念窟   虎島の東端から和泉山脈をのぞむ役行者
 
伽陀寺は南海加太駅北にあったとされている   戦前の虎島堡塁遺構(掩蔽棲息部だったらしい)
 
向井家迎之坊   阿字ケ峯行者堂