● 【葛城二十八宿】第十九経塚「妙経法師功徳品」(ほっしくどくほん)

神福山大澤寺(五條市)

【 妙経法師功徳品第十九】  ※要約
  六根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官とその能力のこと。六根清浄とは、それらが生まれつきのままで清らかになるということ。それが、『法華経』を受持し、読誦し、教示し、書写することによる「利益」として説かれている。

【日本遺産】 葛城修験(構成文化財)
 大澤寺、神福山 法師功徳品(第十九経塚)/東覚寺 八大龍王・葛城明神春祭り
 不動山の巨石大福山(第三経塚)

文献

引用・抜粋文

『葛城峯中記』
(室町時代初期)
鎮永/千勝院

六十八 山内谷 左久米寺薬師。国界嶽瀧有。
六十九 大澤谷 葵宿 谷ヲ登ニ往ク。神福寺 柳宿池前 鷲岩崛 禮盤石 法師功コ品第十九 神福山 常光童子 東左ニ付テ往、鬼多山アリ。左江往ハ下ニ薬師堂見ル也。
七十 辰尾寺 御作薬師。

『葛嶺雑記』
(江戸時代後期)
智航/
犬鳴山七宝龍寺

山内東覚寺
 本堂薬師神変大士不動尊弘法大沙等八大竜王社望剛童子
神福山大澤寺 
 和州年知郡鬼多山谷にあり五条御代官処配所古義生門言本堂薬師神変大士弘法大沙不動尊弥陀等此寺通称にせの堂の目の薬師といふ山の背のつまりにあるかゆゑ那りとそまた本堂のわきに神明宮春日社望剛童子等此山の山頂上を神福山といふ茂みの森あり鷲の愛あり常光童子立せ給ふといへり按する常行童子の書誤りならんかまた嶺の林を経塚なりといふ妙法師功徳品第十九之地
 大沢の山は高野の行ひに法の林をしをりとそらきく

『紀伊続風土記』
1806年(文化3)
巻之四十六

 伊都郡第五隅田荘杉尾村 明王寺の後の山にて女人結戒の地なり。申の時を過れば人登らす山臥の行所なり。登り六町樹木茂密木葉道を埋め石角樹根を攀ちて漸(く)登るへし。嶺に大石磊落として或は丈餘或は五六尺重疊錯落し縦横正斜其状縷形をへからに石根多く地を出て人力を以て運ひ置くが如し一竒と謂ふ如し相傳ふ役ノ小角葛城山より金峯山に石橋を架けんとして一夜に石を此所に集め葛城の神として造らしむる(中略)頂上大石の指出たる下に三社あり不動金剛童、八大龍王を祭る社地周十七町明王寺の奥院と唱ふ

【以下の文献より引用・抜粋】
●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録

 「さかひ原よりほりこし峠といへるをこして山内にいたるみち甚しき難路なるべし」という記述が『葛嶺雑記』に見られるが、小峰台や紀ノ光台といった住宅地の造成によって、このあたりの山林は姿を変え、当時の古道を追うことは難しい。ただ、山内の集落内には南北に延びる古くからの生活道路があり、ここを北上すると東覚寺である。『葛城峯中記』には「山内谷左久米寺薬師」、『葛嶺雑記』には「山内東覚寺本堂薬師神変大士不動尊弘法大沙等八大竜王社望剛童子」と、共に東覚寺を巡礼している。
 結界山東覚寺の案内板には、役行者が石像の本尊薬師如来を自ら彫り、当時を建立したとある。本堂の裏手には、八大龍王と葛城明神を祀る社があり、毎年4月末〜5月上旬に春祭りが行われ、不動明王に捧げる柴燈大護摩も行われる。

 一方、小峯寺のある境原と東覚寺の山内の間に、杉尾という集落があり、ここには法輪山明王寺がある。『紀伊続風土記』によると、「明王寺の後の山にて女人結戒の地なり。申の時を過れば人登らす山臥の行所なり。(中略)頂上大石の指出たる下に三社あり不動金剛童、八大龍王を祭る社地周十七町明王寺の奥院と唱ふ」という記述があり、この寺院の背後の不動山やその途中の巨石周辺は行場だとしている。不動山の巨石は、和泉層群に多い礫岩の露頭で、その1つにぽっかりと空いたポケットのような穴がみられる。ここに耳を当てると、あの世の音とも紀の川のせせらぎとも思えるような音色が聞こえると言われ、日本の音風景百選に選定されている。こうした穴は、他にも大小幾つか見られるが、風化によって礫が落ちた穴だろう。最も大きな巨石の一つに、不動明王、金剛童子、八大龍王の三柱が新しい大理石の祠に祀られている。ここが明王寺の奥の院ということだろう。
 明王寺近くにはトイレや駐車場が整備され、寺院からの巨石群へは、一直線に伸びた635段の階段が整備されている。この階段はかなりの急登なので、車道を数百メートル北上した所に迂回路がある。その途中には、やはり巨岩の下を窟に見立て毘沙門天が祀られているのは、かつて行場だった名残だろうか。明王寺の境内には、「白坂活日媛皇女精舎」と掲げられたお堂がある。白坂活日媛皇女とは、継体天皇(507-531在位)と関媛との間の皇女であるが、この山村とどういった関わりがあったのだろうか。2013年にここを訪れたときは、分厚い土壁のお堂であったのが、真新しいお堂に造り替えられていたのは残念である。
 明王寺から30分ほど登ったところに不動山山頂がある。その途中、大木の袂に朽ちた祠を見つけることができたが、こちらの御神体はわからない。さらに、50分ほど登ると、行者杉峠に至る。この峠は、大阪府(河内長野市)、和歌山県(橋本市)、奈良県(五條市)の3 府県境界地に位置しており、その名にふさわしいスギの老木がそびえている。

 
結界山東覚寺   東覚寺本堂の裏手に八大龍王と葛城明神
 
法輪山明王寺   白坂活日媛皇女精舎(2013年8月撮影)は、建て替えられた
 
不動山の巨石   日本の音風景百選に選定された風穴
 
巨石群へは、一直線に伸びた635段の階段   杉尾集落内の毘沙門天

 『葛城峯中記』や『葛嶺雑記』には、明王寺や不動山の記述は見られないので、東覚寺から大澤寺に赴いたと思われる。現在、東覚寺から五條市大澤町に向けて、舗装道路が東西に延びているが、江戸時代後期の『葛嶺雑記』の頃には、もう少し落合川に沿っていたものと思われる。五條市立五條西中学校敷地の西側に,車一台が通れる道路が大澤寺に延びており、ここが東覚寺からの古道であったと考えられる。一方、五條市立牧野小学校の西側にも大澤寺まで通じる車道が延びており、戦前までは、こちらが五條市内からの参道として、行事ごとに賑わったそうである。今は見られないが、かつては山門もこの道中にあったと聞く。

 今から約1300年前に、役行者がこの地を行場として草堂をむすんだのが瀬之堂(現大澤寺)の開基と伝わり、その後、弘法大師が伽藍及び僧房を建立し、真言密教の大霊場及び金剛七坊の一つとして栄えたという。この寺院は、山号にもなっている神福山のたもとに位置し、その山頂には葛城二十八宿第十九番経塚がある。大澤寺にも、青岸渡寺(熊野修験)一行が時折姿を見せるそうだ。また、この寺の裏手には、かつて三段の滝があって、昭和30年代までは滝行も行われていたらしいが、現在は、その滝も消滅している。また、かつては、高野山大先達による柴灯護摩法衣の厳修も行われたようだが、今は、護摩壇のみ境内に残る。このように、金剛山七坊の一つでもあるこの寺院は、葛城修験道の行場や宿坊としての役割を担っていた時期があった。
 第十九経塚は、大澤寺の山号にもなっており、その奥の院とも言うべき神福山山頂にある。 山頂への最短ルートは、国道310号線金剛トンネル南口に、車2台ほど駐車できるスペースがあり、そこからダイヤモンドトレイル の尾根にとりつく。さらにダイトレを東ヘ進んでいくと、枝道を少し上ったところに、まず、神福大金権・龍王神・大久保家祖神の三柱を合祀している祠が目に入る。そして、山頂には、高天山佐太雄神社の社が ある。この社が経塚ではなく、その右隣にあるスペースが経塚である。塚や石碑のようなものが経塚になっているわけではなく、 後に建てられた標識によってその所在が分かる。この山頂一帯は平地になっており、かつては奥の院にふさわしい社があったのかもしれない。神福山の山頂から少し南に下ったところに、
  「瀬の堂の薬師さん」の愛称でも親しまれているこの寺院は、江戸時代以降、「この池の水で目を洗うと眼病が治る」と信じられ、近畿各地から多くの人が訪れたそうである。現在は閉じられているが、「琵琶ノ池」の水の成分を調べてもらうと、いくらかのホウ酸が含まれていたそうだ。
 大澤寺の西端から行者杉峠に向かって登山道が伸びている。ここには「東ノ行者」と呼ばれる役行者を祀る祠があり、文久辛酉歳(1861年)の銘の入った手水鉢や「役の行者宝前、和州宇知郡寄立、願主高野屋甚右ェ門、安政七申三月吉日」と彫られた花筒などがある。現在、 5月5日に、石見川の人たちによって「行者杉祭」が行われており、役行者をお祀りしたあと、お弁当を囲んで祝う趣向だが、かつては、五條側の人たちも参加していたと聞く。行者杉峠から南へ下ると大澤寺があり、この日は、花会式が行われている。

 
大澤寺本堂  
 
境内の護摩壇跡  
 
琵琶ノ池   大澤寺蔵の境内図(江戸時代)
 
第十九経塚(左奥に高天山佐太雄神社)   神福大金権・龍王神・大久保家祖神
 
東ノ行者堂    
 
行者杉峠の名の由来か   文久辛酉歳(1861年)の銘の入った手水鉢