(五條市)
【 妙経随喜功徳品第十八】 ※要約 この法門を聞いて喜んで受け入れて、他の人の語る功徳が明かされる。ここで語られる「五十展転の功徳」とは、「真の自己」と「法」に目覚める感動の連鎖は、五十人に伝言ゲームをしていっても衰えないという話である。
【日本遺産】 葛城修験(構成文化財) 岩瀬経塚山 随喜功徳品(第十八経塚)/小峯寺 行者まいり、宮ノ講と葛城神社年越し行事
引用・抜粋文
『葛城峯中記』 (室町時代初期) 鎮永/千勝院
六十四 転法輪嶽 紀たう(※)下 地藏是ヨリ貳丁斗皈、右東ノ山江上ル行者御母公墓アリ。(※イ+別) 六十五 今遣水 五六町往、ウソフキノ金剛童子左ノ下二有。是ヨリ下ル。 六十六 黒がし(※2)多輪 柱本 随喜コ品第十八 大日堂 東ヘ五六丁往テ十間斗急ニ下坂アリ。是ヨリ右へ往ベシ。細川江出ル。 (※2)木+刃 六十七 境原ノ小峯 觀音不空羂索也。渋草リ山内江往。
『葛嶺雑記』 (江戸時代後期) 智航/ 犬鳴山七宝龍寺
岩瀬の経塚山 不動の段より山つづき。しかし通路なし遙拝 妙隨喜功徳品第十八之地 武士の岩瀬の玉や光るらん経塚山を守るいさおに 境原小峰寺 本堂不空羂索・神変大士、不動尊は護摩堂にあり、役行者御母公の墓とて、十三重切立塔あり 此あたりハフクラン樹の枝にところ〲に桧木葉おひ出たりまた椒つゞしのる子ありて尋常のやどり木とは其わけたがへり由来ハ開祖神変大士此所にて柴手水をなして投し給ひしかバ木の枝にかゝしりよりかくなれりといひつたへし 但しさかひ原よりほりこし峠といへるをこして山内にいたるみち甚しき難路なるべし
『紀伊続風土記』 1806年(文化3) 巻之四十六
東家村より十七町許これより河内国三日市まで二里、葛城連峯の中、この處最も卑くして平易なれば、北方の諸州より本國に入る通路とす。河内國錦部郡天見村に接せり。むかし諸帝高野山に行幸し給へるも皆この峠を越えさせ給う。永承年中、関白頼道公御参拝の記に、「おの山を越ゆるよし見えたるも猶この道なり、おの山は葛城続きの北山の総名なれば、こゝををもしかいへる事他にも證あり」かくて南山登詣の緇素年々歳々に多きをもって、いつの頃よりか山嶺に茶店をひらき、客舎を建てつらねしかば、酒旗春風になびき、にくからぬ袖に、往来の旅人を招くもあるべし。
【以下の文献より引用・抜粋】 ●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録
『紀伊名所絵図』には、「むかし諸帝高野山に行幸し給へるも皆この峠を越えさせ給う。(中略)かくて南山登詣の緇素年々歳々に多きをもって、いつの頃よりか山嶺に茶店をひらき、客舎を建てつらねしかば、酒旗春風になびき、にくからぬ袖に、往来の旅人を招くもあるべし。」とあり、紀見峠は、高野山への参詣者で賑わい、宿駅が連なっていたことがうかがえる。現在の紀見峠は旧国道371号線上にあるが、当時の古道は、旧国道からさらに東に上ったところにあり、そこには「高野山女人堂江六里」の道標が建てられ、近世に紀州藩が設置した番所跡を示す標識がある。『紀伊名所絵図』では「紀伊見峠」という名称が用いられており、大阪側から上ってきた旅人が、ここで初めて紀伊国を一望できたのだろう。往時の賑わいをあらためて想像してみる。 余談だが、紀見集落は、世界的な数学者岡潔氏(1901年-1978年)生誕の地であり、岡氏の功績をたたえる石碑や氏が利用した道が「情緒の道」と名づけて整備されている。思わぬところで、偉大な先人の足跡に出くわすものだ。 室町時代初期の『葛城峯中記』では、「柱本 随喜コ品第十八 大日堂」という記述が見られ、柱本の寺院に第十八経塚があったようである。現在、柱本には大日如来を本尊とする極楽寺があるが、その昔、ここが「大日堂」であり経塚があったのかもしれない。また、日本遺産「葛城修験」の構成文化財に指定されいる「宮ノ講と葛城神社年越し行事」の葛城神社は、紀見峠を下る途中にある。毎年大晦日に地元の宮ノ講員12軒が1年毎に交代で神主を務め、当日は重さ20sの大松明による道案内で滝壺に入り、精進潔斎の修行を行うそうだ。 一方、江戸時代後期の『葛嶺雑記』では、不動の段(天見不動)より山つづきにある「岩瀬の経塚山」に第十八経塚があるとするものの、通路がないため遠方より遙拝していたとある。この「岩瀬の経塚山」は、天見富士と呼ばれている旗尾岳を経て、府庁山さらには十字峠に至る途中で立ち寄ることができる。小さなピークに、和泉砂岩の石碑でこしらえた第十八経塚がある。ここへは、南海高野線千早口駅から真東に伸びる才ノ神谷沿いに進むルートもあり、アプローチの時間はこちらが短い。したがって、現在はさほど難路でもないが、交通の要所である紀見峠から北に大きくはずれたこの地は、遙拝で済ませるのが合理的であったのだろう。
紀伊国名所図会より「紀伊見峠」
紀見峠から東西の尾根沿いに、ダイヤモンドトレイルが伸びている。ダイヤモンドトレイル(ダイトレ)は、北の屯鶴峯(奈良県香芝市)から、二上山・岩橋山・大和葛城山・金剛山・岩湧山などを経て、南の槇尾山(和泉市)まで続く全長約45キロメートルの自然歩道である。金剛生駒紀泉国定公園の自然に親しんでもらうために、1968年大阪府と奈良県が整備し、1972年に金剛石(ダイヤモンド)にちなんで名付けられたものである。 旧国道371号線の紀見峠から少し大阪側に下るとトイレがあり、その横から整備されたダイトレが伸びている。一方、旧街道の紀見峠から少し和歌山側に下ったところに金剛山への登山道がのびており、かつては、この古道が使われたのではないだろうか。両ルートは、山の神で合流する。ここからダイトレをもう少し西へ進んでいくと「西ノ行者堂」という大きな標識に出くわす。その近くの分岐を南にとると「西ノ行者」の祠が見える。正面から手を合わせるのに一人がやっとというスペースしかない。このダイトレの延長線上に、「東ノ行者」もあるが、先の文献には両者いずれの記述もない。 ただ、「西ノ行者」では、「行者まいり」と称して、毎年1 月2 日に、水と半紙にミカン、祝柿、栢実を包み、ここに参拝する。下山の際には、薪を拾いながら歩き、これを毎年の仕事始めとする風習が受け継がれ,日本遺産に登録されている。 『葛城峯中記』や『葛嶺雑記』では、この後、境原の宝雲山小峯寺(おみねじ)を経由する。小峯寺は小高い山中にあったと思われるが、現在、周辺は大規模な宅地開発が行われ、住宅、学校、病院、工場などが取り巻き、風景は一変している。この寺院の境内のみが木立に囲まれ閑けさを保っている。門をくぐると、「葛城根本道場」の真新しい石碑がまず目に入る。毎年3月には、柴燈大護摩祈祷がとり行われ、秘仏である馬頭観世音菩薩が開帳される。『諸山縁起』に修験の行場として記されており、少なくとも鎌倉時代には創建されていたとされている。南北朝時代の天授5年(1379)の銘が刻まれた結晶片岩製の宝篋印塔は、和歌山県指定文化財となっている。また、本堂から南の小高い丘には、『葛嶺雑記』にも記されている、役行者の母の墓と伝わる十三重の石塔が残っている。