蝋梅の里(流谷)
【 妙経如来寿量品第十六】 ※要約 釈尊が、四十数年間でどうやってこれだけの菩薩を教化したのかという弥勒菩薩の疑問に対して、釈尊は、「すでにはるか遠い昔に覚っていた。(久遠実成)燃燈仏をはじめとして正しく完全に覚った尊敬されるべき如来たちの滅度は、実に私が、巧みなる方便によって法を教授するために作り出したものであり、それらはすべて私なのだ。」と答えた。 釈尊は、量ることのできない寿命の長さを持ち、常に存在し(説法し)続けている。完全なる滅度に入ったことはなく、(衆生を)教化することを願って完全なる滅度を示して見せるのだ、というのである。また、釈尊は、常に娑婆世界にあり続け、菩薩としての修行を続けていると述べ、衆生を仏道に入らせるための方便として涅槃に入って見せたのだというのである。(方便現涅槃)この「方便現涅槃」を譬えたのが、「良医病子の譬え」である。
【日本遺産】 葛城修験(構成文化財) 流谷金剛童子 如来寿量品(第十六経塚)
引用・抜粋文
『葛城峯中記』 (室町時代初期) 鎮永/千勝院
六十 柿多輪 岩涌寺。涌出品第十五 秘所有。本堂・・・ 経塚 多宝塔 行者御座 護摩壇 金剛童子。 加賀田口ヨリ右ノ谷江五丁斗往、東ノ谷ヘ往、少たう(※)下有、流谷ヘ出ル。(※たう:イ+別) 六十一 今泉水宿 如来壽量品第十六 右へ弐丁計往、谷川ニ石不動有、破レテ像不見給。里ヨリ左ノ道ヲ下、樒木ノ本片破ノ石不動在。
『葛嶺雑記』 (江戸時代後期) 智航/ 犬鳴山七宝龍寺
流谷金剛童子 岩わき寺より山の半腹をゆくみちに、古記にあるごとく所々川中に不動尊として、大の石にしめなわなど引はへて祭れり。みな役行者の御勧請のよしにて、これをこの里に、十六泉とて深く尊崇し奉るなり。また経塚は、此童子ならんかといへり 妙如来壽量品第十六之地 名にし負ふ二八の水の流れ谷法の煙の絶えず匂へる
『葛城峯中記』 (江戸時代初期) 向井家所蔵
流谷不動明王、上ノ不動、下ノ不動有リ、上ノ不動ハ遙拝、下ノ不動ハ村ノ制札場ノ前、川向ニ壱丈斗石アリ
【以下の文献より引用・抜粋】 ●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録
岩湧寺から加賀田川沿いに車道を2km余り下っていくと、右手に南海高野線天見駅に通じる枝道がある。ここを右折すると、車道はループ状のトンネルを経て、流谷集落に至る。『葛城峯中記』(室町初期)六十の項では、加賀田口から流谷に出るルートが記されているが、この道が妥当ではないか。ただ、当時はループトンネルがあろうはずもなく、トンネル手前右手から伸びる山道の峠を越せば、最短ルートで流谷に出ることができる。流谷川最上流の集落には、流谷観音堂があり、周辺の畑には花卉栽培用に植えられているのか、たくさんの蝋梅が2月下旬頃満開であった。 第十六経塚は、流谷川対岸の山麓にある。道路沿いに標識があるので、下りていく場所はわかりやすいが、そこから山中の踏跡をたよりに経塚を探すことになる。木製の祠の中に、二体の石仏が安置され、一体は地蔵尊であるが、もう一体は表面が風化してその姿は判別できない。『葛城回峯録』(犬鳴山七宝滝寺)によると、昭和53年に、村人が小川の中にあった不動明王の尊像の1つを引き上げて、この地に移したとある。『葛城峯中記』(室町初期)や『葛嶺雑記』(江戸後期)の記述に共通するのは、流谷川の何ヶ所かに、注連縄をかけ不動尊として祀られている石仏があると記し、風化によって像の形は見えずらくなっているとあるが、この祠の不動尊はそのうちの一体かもしれない。では、未だ川の中に祀られている不動尊があるのかもしれないと思い、出会った村人に尋ねてみたが、その存在は確認できなかった。「蝋梅の里」とうたわれた集落のはずれに、不動明王の石仏を祀った祠があり、たくさんの碑伝が置かれているが、こちらのは比較的新しい大理石の石仏であり、その由緒は分からない。
「流谷」という地名はとても印象的で、その由来を想像するに、遠い昔には、土石流が発生するような災害が起こったところだろうか。かつては、谷川の何ヶ所にも不動尊を祀っていたということなので、暴れ川を鎮める意味があったのかもしれない。あくまでも私的な妄想だが。 この流谷集落の入口にあたるところに、八幡神社がある。かつて、このたりは甲斐荘という石清水八幡宮の荘園があったところだそうで、1039年(長暦3)に、石清水八幡宮より八幡神を勧請し、社殿を造営したとされている。私が訪れた2月下旬には、流谷川に掛けられた勧請縄がまだ新しく残っていた。勧請縄は、疫病や忌穢れが村内に入ってこないようにというのが一般的だが、こちらのは流谷と天見を分ける結界の意味もあるそうだ。