岩湧寺多宝塔(重要文化財)
【妙経従地湧出品第十五】 ※要約 ようやく娑婆世界での弘教を申し出る菩薩たちが現れるが、釈尊は、「あなたたちには勤まらない」と退け、それを行う人はもういるのだと無数の「地涌の菩薩」を呼び出し、大地の裂け目から出現する。その地涌の菩薩のリーダーたちが上行、無辺行、浄行、安立行である。地涌の菩薩たちが出現し、そこにたたずんでいる姿を表した言葉に「如蓮華在水」というものがある。
【日本遺産】 葛城修験(構成文化財) 岩湧山従地湧出品(第十五経塚)/ 岩湧寺大福山(第三経塚)
引用・抜粋文
『葛城峯中記』 (室町時代初期) 鎮永/千勝院
五十九 佛徳多輪 安樂行品第十四 柚多 瀧畑ノ下ヲ右東ノ谷口ニ熊野瀧有。是ヨリ川ニ付テ上レハ横(※)谷也。檜留 道ノ上ニ金剛童子有。右ノ谷ヲ左ノ道ヘ十町斗往ハ、左山原ニ柿木四五本有。左ノ原ヲ尾江登り、右東ノ方へ上リ、左方ヘ山傳ヒニ往、岩涌ノ上ヘ出ル也。 (※オへんに黄/誤字か) 六十 柿多輪 岩涌寺。涌出品第十五 秘所有。本堂・・・ 経塚 多宝塔 行者御座 護摩壇 金剛童子。 加賀田口ヨリ右ノ谷江五丁斗往、東ノ谷ヘ往、少たう(※)下有、流谷ヘ出ル。 (※たう:イ+別)
『葛嶺雑記』 (江戸時代後期) 智航/ 犬鳴山七宝龍寺
岩涌寺 本堂十一面、神變大士、二重塔・經塚 妙従地涌出品第十五之地 おもひきや岩湧寺の名におひて經つかさへもふたつありとは
『葛城先達峰中勤式廻行記』 1709年(宝永6) 三宝院怪意
【以下の文献より引用・抜粋】 ●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録
加太向井家文書の『葛城峯中記』(江戸初期)には、「瀧畑へ八丁夫より槇尾山へ卅丁」とある。ダイヤモンドトレールの終着点槙尾山へは、この滝畑に登山口があり、丁石地蔵の案内に導かれ約1時間半で槙尾山施福寺に到着できる。しかし、室町時代初期の『葛城峯中記』や江戸時代後期の『葛嶺雑記』には、滝畑から槙尾山へ赴いたといった記述はなく、ここから岩湧寺をめざしたようだ。 前述の『葛城峯中記』の五十九に、「瀧畑ノ下ヲ右東ノ谷口ニ熊野瀧有。」と記されており、現在の滝畑四十八滝の1つ「権現滝」を指すと思われる。この滝は、車道から20mほど下を流れる石川の支流にあり、車道脇の小さなプレートが降り口を示されている。したがって、岩湧寺に通じるこの車道が、かつての巡礼道に沿っているのかもしれない。 単調なアスファルト道を進んでいくと、標高550m付近のヘアピンカーブのガードレール外に、第十五経塚を示す小さな案内板がある。その方向に向かって進むと、数十メートル先に五輪塔があり、そこには行者たちの多くの碑伝が置かれている。ただ、『葛城先達峰中勤式廻行記』(1709年)には、「西ノ經ヅカ、本堂ノ後ノ上。東ノ經ヅカ、新客ニ秘スル事有リ」と記され、『葛嶺雑記』(江戸時代後期)には、「おもひきや岩湧寺の名におひて經つかさへもふたつありとは」という和歌が追記されている。つまり、第十五経塚はかつて2つ認識されていたとも考えられる。先の五輪塔が西ノ経塚だとすれば、もう一つ東ノ経塚はどこだろう。
湧出山岩湧寺は、大宝年間(701〜704)に役小角が開基した寺院と伝わり、山伏たちの修験道場として栄えた。元は天台宗であったが、明治5年の修験禁止令によって、現在は融通念仏宗の寺院となっている。境内の本堂は江戸時代初期に建てられたとされているが、多宝塔及び本尊の大日如来坐像は、共に国の重要文化財である。第十五経塚から岩湧寺に行く途中、右手に岩湧山の登山口が2つある。どちらも山頂(897.3m)に通じるが、西側がほぼ直登で東峰に至り最短時間で岩湧山に登頂できる。一方、東側の登山口からは、ダイトレの五ツ辻に伸びているが、10分ほど登ったところに行者堂が見える。登山道から突き出た尖峰を進んでいった先に行者堂があり、周辺はスペースがなく足下に注意を払う必要がある。祠には、木造の役小角と不動明王の二体が安置されている。さらに、行者堂の東隣の尖峰にも、五輪塔の一部が残っており、磐座の五輪塔と呼ばれている。この2ヶ所のいずれかが、もう一つの経塚「東ノ経塚」ではないかという説もある。 周辺には、「行者の滝」「不動の滝」「千手の滝」があり、まさに行場の様相である。なかでも、オーバーハングした見上げるような巨岩がシンボル的に鎮座し、その前に七体の自然石に刻まれた神(初辰龍王・大杉大神・白瀧大神・薬力大神・笠松大神・白隆大神・松木大神)が並んでいる。その左手に不動の滝、右手に千手の滝、下流に行者の滝がある。