● 【葛城二十八宿】第十四経塚「妙経安楽行品」 (あんらくぎょうほん)

光滝(石川)

【 妙経安楽行品第十四】  ※要約
   仏が亡くなったあと、法華経を実践するための日常的な心構え(戒律)が示されている。例えば、「善い行い」として、忍耐、感情の抑制、心の制御、誤った憶測で判断しないなど。「適切な交際範囲」として、国王・王子・大臣などの権力者に近づいて親しくなってはならない、歓楽街や遊興の場所あるいはその関係者と親しくつきあってはならない、と述べている。法華七喩の6番目「髻中明珠の譬え」が説かれる。。

【日本遺産】 葛城修験(構成文化財)
 光瀧寺仏徳多和 安楽行品(第十四経塚)/南葛城山鏡宿 安楽行品(第十四経塚)
 福玉山光瀧寺/光瀧寺 炭焼不動尊

文献

引用・抜粋文

『葛城峯中記』
(室町時代初期)
鎮永/千勝院

五十七 大畑 胎蔵界大日阿弥陀如来 土佛大黒。勝樂寺ノ本尊也。・・・光瀧江下道ニ荒瀧尼瀧児瀧。
五十八 福王山光瀧寺 本堂 不動・釋迦尼。千手瀧下ニ准照瀧馬頭瀧 禮石 凡四十九瀧四十九屈。
五十九 佛徳多輪 安樂行品第十四 柚多
 瀧畑ノ下ヲ右東ノ谷口ニ熊野瀧有。是ヨリ川ニ付テ上レハ横(※)谷也。檜留 道ノ上ニ金剛童子有。右ノ谷ヲ左ノ道ヘ十町斗往ハ、左山原ニ柿木四五本有。左ノ原ヲ江登り、右東ノ方へ上リ、左方ヘ山傳ヒニ往、岩涌ノ上ヘ出ル也。 ※オへんに黄(誤字か)

『葛嶺雑記』
(江戸時代後期)
智航/
犬鳴山七宝龍寺

一乗山勝楽寺
 鎮守八幡宮本堂に弥陀観音勢至
 高祖堂其前にいにしへ護摩を修し給ふあとなり
 御腰かけ石此里に守安茂十郎ありその家祖次郎五郎なるとき高祖御佛留なし給ひて一夜に法華経を書写し給ふとなんまた砥石畑といふに行者斧磨所有当時茂十郎が突に御作の大黒天を守護せりこれより蔵王迄帰りて河内にいたる
福王山光瀧寺
 稿玉山光滝寺河州錦部郡朧み𤇆領主狭山侯若王子末天吉
 本堂不動明王神変大士多宝塔に五智如来弁才天社重剛童子四丁おくに滝扇山弁才天今は才神山といふ
 此里の小松が宅の辺に態野権現また仏徳多輪の経塚あり妙安楽行品第十四之地

『紀伊続風土記』
1806年(文化3)
巻之四十四
伊都郡嵯峨谷村
(復刻版第二輯四四頁)

鏡が宿
 村の良ノ方登る事二十一町 葛城山峯九重村に接す 傅へいふ楠公遠見して鏡を埋めたる地なり 故に鏡ノ宿とも 楠遠見の壇ともいふ
 此處に土中に穴の形ありて石にて覆ひたり 土人此處にて零祭をなすに 此石を取除けれは雨降ると云ふより雨ふたともいへり 山伏の行所なり 此処より眺望するに風景尤よし 因りて近隣の村々より躑躅の花さく頃なとに酒肴を携へて登る者多し 鼓腹の化を蒙る事想像すへし 鏡宿の少し西を八国ヶつふといふ 紀泉和河阿淡摂播の八箇国を望む故に名つくるなり

【以下の文献より引用・抜粋】
●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録

 室町時代初期の鎮永による『葛城峯中記』を、記述順に追いかけてみると、第十三経塚を経て蔵王宿、そして、大畑の勝楽寺で大日如来にお参りした後、光滝寺に向けて北ヘ谷を降りている。現在は、蔵王峠を起点に県道61号線(堺かつらぎ線)が南北に伸びているが、それに沿った道であっただろうと想像する。この谷は石川の源流にあたるが、光滝寺の上流には光滝、大滝、御光滝、権現滝、稚児滝、荒滝等の滝が点在し、いつからか「滝畑四十八滝」と呼ばれている。『葛城峯中記』では、「光瀧江下道ニ荒瀧尼瀧児瀧」と記述があり、当時は「四十九瀧四十九屈」と呼んでいたようだ。光滝は、光滝寺キャンプ場内を通り抜けた上流にあり、太く短い水量のある滝だ。稚児の滝は、光滝寺付近の道路沿いに木製の案内板があり、本流の石川に落ちる白糸のような滝を対岸に見つけることができる。
 一方、江戸時代の智航による『葛嶺雑記』では、勝楽寺に参った後、「これより蔵王迄帰りて河内にいたる」とあり、やはり、その先の光瀧寺をめざしている。

 現在、光滝寺を訪れようとすると、滝畑ダムから蔵王峠に伸びる県道61号線を1kmほど進むと、キャンプ場の手前に境内がある。ただ、車道から数十メートルほど上にあって道からは見えず、歩いて上っていかなければならない。道路沿いには数台の駐車スペースがあるものの、ロープが張られ関係者優先ということだろうか。車の場合は、キャンプ場に停めるしかない。(有料)
 不動明王立像を本尊とする本堂は、2008年、立て替えられている。かつては、本堂左手に多宝塔があったようだが、今はない。この地を修行した役行者が寺の境内に法華経の安楽行品(第十四)を奉納して塚をつくり、その上に多宝塔が建てられたという伝承が残っている。
 さて、光滝寺の境内において、一際目を引くのが「炭焼不動尊」というユニークな名前のお堂で日本遺産に指定されている。炭焼不動の伝承は、943年(天慶6)、不動明王が炭売りの老爺に化現し、時の住持・常操大僧都に白炭の製法を授けたというものである。その白炭は「光滝炭」と呼ばれ、特に茶の湯で珍重された。炭焼きを生業としていた滝畑の人々は、炭焼不動尊を守護仏として祀り、炭や炭焼き道具を奉納し篤く信仰してきたという。

 
光滝寺本堂   炭焼不動尊
 
多宝塔跡   稚児の滝

 第十四経塚の場所には二説あり、もう1つは南葛城山「鏡ノ宿」である。『紀伊続風土記』(紀州藩編纂1839年完成)によると、昔、楠木正成公が遠見して鏡を埋めたという言い伝えがあり、それ以来、鏡の宿というそうだ。現在、トタンで三方と屋根を囲った小屋に、石碑が二基建てられ、右側のは「不動明王」、左側は「善女龍王」の文字が刻まれている。裏側面には、寄進者だろうか人物名と共に、「九重、嵯峨谷、竹尾、田原、上中、下中」の村名が見られる。
 これらの村名は、現在、和歌山県の高野口町にある集落で、京奈和自動車道の高野口I.C.付近から県道112号線を北上していくと、廃校になった信太小学校を利用したキャンプ場SHINODA BASEがある。さらに、上っていった先が九重集落で、軽四が通れるくらいの道幅になった車道はその先も続き、鏡の宿の標高50m下まで続いている、その車道はそこから南へ折り返し、嵯峨谷や竹尾の集落と結んでいる。したがって、鏡の宿へは、軽トラで行ける身近さがあり、その維持管理は、今もこうした村の人たちによって担われているのかもしれない。
 修験者の碑伝が、ここ鏡の宿でも幾つも重ねられ、こちらの方も今なお巡礼の足跡が絶えないようだ。ちなみに、南葛城山の山頂と三角点898.2mは、ここから少し離れたところにあり、三角点は特に見つけにくい。

 
鏡の宿   左側「善女龍王」、右側「不動明王」
 
南葛城山頂   「一本杉・鏡ヶ宿・楠」と「壇舊跡」の間が紛失している