● 【葛城二十八宿】第十二経塚「妙経提婆達多品」(だいばだったほん)

燈明岳(東ノ燈明岳)

【妙経提婆達多品第十二】 ※要約
  悪人とされる堤婆達多(釈尊の従兄弟)は、過去世において釈尊に法華経を教え、釈尊が堤婆達多に仕えていたことがあった。「堤婆達多こそが、その時その情況でその仙人であった。堤婆達多こそ私の善き友(善知識)なのだ」と釈尊は言って、堤婆達多に対し授記がなされた。
 次に、龍女は8歳だが、女性であっても覚るができ、しかも不退転で、優れた能力をたくさん持っていると、文殊師利菩薩は釈尊に言った。これを聞いて、権威主義的な女性観や成仏観に固執する智積菩薩と舎利弗は難癖を付けたが、龍女は、男性に変身して(変成男子)、成仏の姿を見せた。二人は何も言えなくなり沈黙してしまった。

【日本遺産】 葛城修験(構成文化財)
 天女山正楽寺(かつらぎ町)/神野阿弥陀堂(かつらぎ町)

 七越峠から第十二経塚護摩のたわ朴留へ向かう。七越峠には、道標を兼ねた(「左 さい所(在所)みち 右 まきのふみち」)大きな地蔵尊以外に、その対角線上に堀越観音へ導く道標があった。天保十二年(西暦1841年)の銘で「それ ほりこしくわんをんみち」と彫られていたが、2022年7月現在、消失している。(2022年1月30日)その堀越観音道を南下するが、4WDの軽トラやジムニーなら通行できそうな舗装道が続いており、やがてY字路にさしかかる。この分岐点の右手をとると神野集落に通じる。

 神野は修験道の里で、集落入口付近には、道端に「アーク(大日如来)法華経塔」と刻まれた石碑がお出迎えしてくれる。やがて、大きなトタン葺きの阿弥陀堂に到着する。かつては、茅葺きだったのだろう。堂内の戸襖板には、安永二年(1773年)にこの堂に籠もった者の名や、安永五年(1786年)の入峰などが記された落書きが残っているそうだ。
 阿弥陀堂をU字に迂回し、柿畑の中を進んでいくと若宮八幡社がある。社叢林として伐採を免れてきたアカガシの巨木が神聖な空気を作っている。柿畑で農作業をする女性によると、時々やってくる行者一行は、中央の八幡社ではなく、右手奥の祠にお参りしているという。そこには自然石に「七大龍王遙拝所」と刻まれた石碑があり、ここから宿山及び七大龍王社を遙拝する人もいたのだろう。
 神社右手には、手前から天女山正楽寺、奥に弁天堂がある。先の阿弥陀堂及びこちらの正楽寺は、日本遺産「葛城修験」の構成資産である。正楽寺は一間四方のお堂で、建築物そのものはさほど古くはないように思えるが、聖護院宮が、1849年(嘉永2)の役行者1150回忌法要の帰途に立ち寄り、里人から昼食が献じられたという。
 先の柿畑の女性から、行者笈立石のことも教わった。正楽寺正面の柿畑の真ん中に、腰をかけるのにちょうどいい石が、茶の木に囲まれて据えられていた。和泉山脈に多い立方体の礫岩であった。

 
石標「アーク(大日如来)法華経塔」   行者笈立石
 
神野阿弥陀堂   阿弥陀堂前の手水鉢(安永二年)
 
八幡社   七大龍王遙拝所
 
天女山正楽寺   弁天堂

 神野集落へは、国道480号線鍋谷トンネルの和歌山県側手前から車道が通っている。普通自動車も通行可能な舗装道だが、途中、文蔵の滝がある。観光客のための駐車場もあり、そこから200mほど山道を登る。案内板には、「源流は宿山、三国山で、文覚上人荒行の地であるといわれています」とある。文覚(もんがく)は、『平家物語』巻第五に「文覚荒行」等の記述があり、すさまじい滝行を行い、飛ぶ鳥も祈り落すほど効験のある刃の験者として描かれている。行場としては、那智、大峰、葛城、高野山、粉河、金峰山などが追記されている。ここ和歌山のかつらぎ町には、「文覚井(もんがくゆ)」と呼ばれる、和歌山県指定文化財の全長約5kmにおよぶ水路もある。京都神護寺の文覚上人が開発した農耕用水路として伝わっている。さて、文蔵の滝で、はたして文覚が荒行をしたかどうかは伝説の範囲だろうが、弘法大師の功績に関する逸話が多い紀伊国において、文覚上人の名が見られるのは面白い。
 文蔵の滝では、今も、滝行が盛んに行われている。そのための更衣室もあり、実際に滝行をされていた方によると、特別の許可はなくとも、だれもが行場として利用できるという。とはいえ、滝行にも一定のルールがあり、心して利用されたい。

 七越峠から第十二経塚への最短ルートは、神野を経由しないで、尾根伝いに1時間余り歩くと、七越峠方面と光滝寺方面へのY字路の近くに経塚がある。路傍に大小の自然石を積み重ねただけの経塚があり、たくさんの碑伝が置かれているのですぐわかる。堀越観音の方から北上する場合、燈明岳を越え、七越峠方面と光滝寺方面へのY字路のところまでくると、「右まきのみち」の石標があり、左をとってすぐである。
 燈明岳は、犬鳴山の方を「西ノ燈明ヶ岳」558m、こちらを「東ノ燈明岳」856.8mとして区別している。その名から、かつて、大阪湾を航行する船の目印になった峰であろう。山頂には、石の祠に役行者の石像が祀られている。文化十一年(1814年)銘の竿だけの奉夜灯や文政十三年(1830年)銘の花筒があり、むしろこちらの方が行場としての様相がある。『葛城峯中記』には、「五十六 堀越宿 燈明峯寺 勧持品第十三 堂ノ下ヲ通、中筋ヲ行也。」という記述が見られ、室町時代には、この山頂付近に「燈明峯寺」という寺院が存在し、第十三経塚もこの付近にあったのかもしれない。燈明峯寺は江戸初期には衰退していたようで、その役割は堀越観音に移っていったのかもしれない。

文蔵の滝
 
文蔵の滝不動明王/七大龍王金剛童子行場   文蔵の滝(更衣室)
 
第十三経塚   燈明岳の役行者石像
 
深峠   石標(右まきのみち)