父鬼役行者像
【妙経見宝塔品第十一】 ※要約 釈尊が宝塔の扉を開けると、そこに多宝如来がいた。多宝如来は座席の半分を与え、二仏が並んで座った。(二仏並座)自分たちもそこに行きたいと望む弟子や参列者たちを空中に浮かせた。 釈尊は、滅後の弘教がいかに困難であるかを列挙した。(六難九易)
【日本遺産】 葛城修験(構成文化財) 七越峠経塚山 見宝塔品(第十一経塚)/槙尾山施福寺
引用・抜粋文
『葛城峯中記』 (室町時代初期) 鎮永/千勝院
大澤・・・ 東右谷ヘ入、たう下ヲ越レハ父鬼也。 (※たう:イ+別) 五十一 山臥多輪・・・ 父鬼 聖観音・・・ 金剛童子川上十町斗リ行、左東ノ谷ヘ入、尾傳上ハ槇尾道ヘ出。北ヘ四五丁下ハ東ノ原ヘ道有、下レハ光瀧ノ林見ル也。是一ノ近道也。父鬼ノ谷ヲ南ヘ行キ、右ヘ道アレトモ山路也。左ノ道江行。一乗山懺法嶽妙法山トモ云。行者經ヲ御納ノ在處也。東ノ嶺ツゝキニ上ル。經護童子 五十二 萱多輪留 寶塔品第十一 瑠璃多輪 灌頂堂屋敷 五十三 七輿寺・・・ 北ヘ山續キ五拾丁槇尾ナリ。 五十四 槇尾寺・・・東ノ丸山右ニ見、東直ニ細道ヲ下ル。廿丁計谷江下ハ光瀧道、藏王ノ六七丁下へ出、近道也。
『葛嶺雑記』 (江戸時代後期) 智航/ 犬鳴山七宝龍寺
桃林山觀音寺 本堂如意輪・毘沙門・不動尊・弁天社」・牛頭天王社、村中に石像の高祖、父恩明神 龍宿山七越峠 夫より西の堂屋敷といへるに經塚あり又東のしげりは童子の社にて宿山といふ 妙見寶塔品第十一之地・・・ 經護童子本地須彌佛、紀泉河三國一乗が嶽に鎮座し給ふ。・・・ ・・・ 此山は往古龍宿山七興寺とて七堂伽藍にして十余の堂塔宮祠四十余の僧舎あり、魏々たる靈場なりしに平治の乱に焼亡せしこと古記にみえたり、大峯に比すれば弥山ヶ岳にひとしかりしという
【以下の文献より引用・抜粋】 ●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録
父鬼のバス停(終点)付近に、八坂神社と観音寺がある。八坂神社の案内板には、父鬼の名称についてこう記してある。「父鬼は宿山が発祥の地で、宿山の七越峠頂上付近の盆地には『葛七大龍王』の石の宝殿があり、七堂伽藍(金堂、塔、講堂、鐘楼、経蔵、食堂、僧坊)があった。しかし、1582年(天正10)、織田信長の高野攻めの際に焼失した。この地を支配していた父鬼氏の姿も見えなくなったので、氏を偲び父鬼を地名として残した。」宿山とは、七越峠に近い七大龍王社のことである。 観音寺から魚庄までの間にロックシェッドがあり、その入口の擁壁の地上から数メートルのところに、役行者の石像が祀られている。その断崖には、登攀用の太い鎖も備え付けられている。修験の道の玄関口としてふさわしい石像で、和泉父鬼郵便局の風景印にも、「鬼の面、鬢櫛山、そして、役行者の石」が描かれている。ちなみに、「鬢櫛山(びんぐしやま)」は、これからめざす第十一経塚「妙経見宝塔品」のある経塚山のことで、北から見ると歯を下にした櫛のような形をしていることからその名がついている。 父鬼川に沿った車道は鍋谷峠を越えてかつらぎ町(和歌山県)に至るが、父鬼集落の外れから父鬼川の支流に沿って左に折れる林道があり、徒歩ではそこから七越峠をめざす。林道から山道に入ると、途中、丁石や石地蔵、石垣などが残っており、高野山や粉河寺への参詣道として、また、紀泉を結ぶ生活道路として、往時の賑わいを偲ぶことができる。 七越峠は、父鬼から紀伊の四郷(広口・滝・東谷・平)に至る峠で、和泉葛城山や鍋谷峠から槙尾山に通ずる尾根沿いの道と交差している。そこに「七越峠茶所跡」の石碑が建てられており、「1849年(嘉永2)の記録に『竜宿山七越峠、紀泉国境に常接待』『七越茶わかし』という記述が見られ、地域住民や茶所世話人衆によって昭和初期まで維持されていた。」という碑文が記されている。ここには年代不明の立派な地蔵尊も見守っており、「左 さい所(在所)みち 右 まきのふみち」と刻まれている。さらに、「たちのぼる 月のあたりに雲消えて 光重ぬる七越の峯」という西行の歌碑も見られるが、この歌は、熊野大社近くの七越峠で詠まれたとする説が有力である。
七越峠の交差点を尾根に沿って東にとると、槙尾山施福寺への巡礼路である。 施福寺は、葛城修験とも関わりが深く、『巻尾山縁起證文等之事』によると、役行者が書写した『法華経』二十八品のうち一品を当山に納めたとある。最後の一巻(巻尾)をこの地に納めたので、「巻尾山」(槇尾山)と言われるようになったという。本堂向かいの手水舎の右手に石段があり、 槇尾明神社へ上るその途中に、「槇尾山経塚跡」と刻まれた比較的新しい石碑が建てられている。 さて、三国山付近に国土交通省大阪航空局三国山航空路監視レーダー局舎があり、そこまで舗装路が伸びているが、峠から200mほど進むと宿山の袂に、「龍宿山の金剛童子」という祠がある。祠の中の自然石には、「七大金剛童子 右一山有」と刻まれた自然石が安置されており、役行者が、大峰には八大金剛童子、葛城には七大金剛童子を配して結界をしいたという故事に由来したものだと考えられる。祠の前には、南に下っていく坂道があり、100mほど進んだところに、ひっそりと七大龍王社の境内がひらけている。立派な玉垣に囲まれた石祠や石で囲った護摩壇、さらには石灯籠や手水鉢などもあり、四郷東谷の村民によって祀られてきたようだ。 さて、第十一経塚の見宝塔品へは、先の七越峠の交差点を西に折れ、尾根伝いの山道あるいは車道を進む。車道を選べば、鍋谷峠に向かって1kmほどのところ右手に山道へのとりつきがあり、そこから数百メートル登れば第十一経塚に到達する。自然石を積み重ねた上に、比較的新しい大理石の石碑が人工林の中に立つ。808.9mの三角点と山頂と経塚は重なっているものだという思い込みがあったが、三角点は経塚の手前にあり、山頂825mを示すプレートは、経塚を通り過ぎてさらに100mほど進んだところにある。経塚山は、「鬢櫛山」の別名があることを話したが、その名の通り山頂付近はなだらかでテーブル・マウンテンの様相だ。さて、話を経塚に戻すと、七興寺跡という標識が目に入る。幕末の『葛嶺雑記』には、「 此山は往古龍宿山七興寺とて七堂伽藍にして十余の堂塔宮祠四十余の僧舎あり、魏々たる靈場なりしに平治の乱に焼亡せしこと古記にみえたり、大峯に比すれば弥山ヶ岳にひとしかりしという」と記され、この山中に大きな寺院のあったことを想像してみる。 「鬢櫛山」の由来をもう一度考えるとき、かつてはこの山の山頂は、櫛の天の部分のように、もう少し丸みを帯びていたのではないだろうか。しかし、七興寺の七堂伽藍が拡大していく中で、山頂は徐々に平地と化し、現在のようなテーブルマウンテンとなったのではないかと想像する。そうすると、和泉地方から は、山頂の寺院群が望めたかもしれない。 江戸時代、和泉国近木荘(現・大阪府貝塚市)を中心に全国一のつげ櫛産地であった。飛鳥時代、二色の浜に漂着した外国人が櫛の製法を伝えたのが始まりと言われ、現在、「和泉櫛」は大阪府知事指定伝統工芸品である。「鬢櫛山」の名の由来が、もう一つ見えてきた。