第十経塚(大威徳寺)
【妙経法師品第十】 ※要約 弘教(仏の教えを広めること)の担い手として、『法華経』を受持・読誦・解脱・書写する法師のことを「善男子」「善女人」と呼び、衆生を憐れむために人間の中に生まれてきた。如来の入滅後、『法華経』を説いていくのは大変なことだが、法師の実践を貫くためには「菩薩は、如来の室に入って、如来の衣を着て、如来の座に坐って」(衣・座・室の三軌)この法門を四衆に説き示すべきである。
【日本遺産】 葛城修験(構成文化財) 大威徳寺 法師品(第十経塚)/松尾寺
引用・抜粋文
『葛城峯中記』 (室町時代初期) 鎮永/千勝院
四十九 神伏寺 北ノ麓ニ在。 五十 転法輪寺・・・ 里ノ上ヨリ北ノ方ヘ下道在。五十町下、牛瀧也。 石蔵五山法師品第十 大威徳瀧有。蔵王涌出地也。 大澤・・・ 東右谷ヘ入、たう下ヲ越レハ父鬼也。 (※たう:イ+別)
『葛嶺雑記』 (江戸時代後期) 智航/ 犬鳴山七宝龍寺
牛瀧山大威徳寺 本堂大威徳明王大沙堂等真言宗瀧本坊支配 其余護摩堂不動尊神変大士二重塔の大日如来等は天台宗穀屋坊支配 惣門の中に経石あり 妙法師品第十之地 大澤神福寺 沢井箱井手越井役行者高座石何れも遥拝
【以下の文献より引用・抜粋】 ●『葛城峯中記』は『葛城の峰と修験の道』中野榮治・著 ●『葛嶺雑記』は『葛城回峯録』犬鳴山七宝滝寺に収録
和泉葛城山から、第十経塚のある大威徳寺までは、現在、アスファルト舗装の車道が通っている。一方、この間の山道はというと、一部「地蔵さん登山道」という名で残っており、丁石地蔵が案内してくれる。車道の標高750m付近に二十一丁地蔵があり、その前の分岐から七丁地蔵までが「地蔵さん登山道」であり、この旧道こそ、大威徳寺と和泉葛城山を結ぶ巡礼の道にふさわしい。 七丁地蔵から先は再び車道であるが、平成15年に復刻された五丁地蔵を過ぎると、右手に大威徳寺に下りていく歩道がある。丁石地蔵はその道に沿って四丁、三丁、二丁とカウントダウンされていくが、一丁地蔵は二丁地蔵の先にはない。かつては、バス停近くに立っていたそうだが、現在は、山門をくぐった右手に安置されている。 一方、大威徳寺本堂前には、「是より葛城嶺まで三十一丁」「享保十八年三月」と銘のある丁石地蔵を見つけることができる。この地蔵は起点となる、さしずめ0丁地蔵だが、元々ここにあったのかどうか分からない。よって、和泉葛城山頂まで三十一体の丁石地蔵が据えられたはずなのだが、二十二丁から先は舗装道路と重なっており、行方不明であるものの。三十一丁地蔵だけが、山頂から北側へ下り、車道に出てくる途中に見つけることができる。この道も、かつての参詣道の一部かもしれない。
役行者が開いた寺院との伝承がある大威徳寺は、山門をくぐった右手の大きな自然石が第十経塚法師品であるとされている。天台宗の古刹大威徳寺は牛滝寺とも呼ばれ、比叡山の学僧恵亮が、三の滝での修行中に、滝の中から牛に乗った大威徳明王が現れたのを見てその姿を彫り、本尊としたことが由来とされている。こちらの多宝塔は国の重要文化財に指定されている。また、牛滝川渓谷は、大阪府有数の紅葉の名所としても知られ、境内奥の歩道から、一ノ滝や二ノ滝、三ノ滝、錦流ノ滝などを望むことができる。大威徳明王が現れたという三ノ滝だが、二ノ滝と連なる険しい断崖で、容易に近づくことはできない。 大威徳寺からさらに3キロほど下った大沢町には、転法輪寺があり、役行者縁の寺院として、かつては行所の1つであったとされている。さらに、下っていくと、大沢神社があり 、その右横が、かつての神福寺跡である。大沢町から東へ大沢峠を越えると父鬼で、次の行場である。 大威徳寺から十数キロ北に松尾寺がある。白鳳時代、役行者が修行中、楠の霊木で如意輪観音を刻み、安置したことが寺の縁起といわれている。『葛城峯中記』 や『葛嶺雑記』に、その記載はないが、役行者ゆかりの寺院として、日本遺産「葛城修験」の構成文化財として登録されてる。