[6-917] 山部赤人
やすみしし わご大君の 常宮と 仕へまつれる
雑賀野ゆ 背向に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒き 潮干れば
玉藻刈りつつ 神代より 然そ尊き 玉津島山
[6-919] 山部赤人
若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る
[7-1222] 藤原卿
玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため いずれも和歌浦(和歌山市)付近で詠まれた『万葉集』の歌だが、現在、この頃の風景はない。
万葉の時代、現在の紀ノ川河口付近には大きな砂州が発達していたため、紀ノ川は大きく南に蛇行し、現和歌川の流路に沿って和歌浦に流れ出ていた。現在も、そこには片男波という砂嘴が発達しているが、その内海は干潟で葦原だった。それまで鶴餌をついばんでいた鶴は、潮が満ちたので干潟は消え、鳴きながら飛び立ったというのが和歌の風景だろうか。潮が引けば、今度は玉藻を刈る乙女の姿が見られたのだろうか。全国に三ヶ所あるという東照宮のうちの1つ紀州東照宮の百八つの石段を登れば、片男波の砂嘴を一望できる。
また当時、玉津島(沖つ島)は海に浮かぶ3つの離れ小島であった。見れど飽かない玉津島は、現在、住宅地の中の小山で、妹背山のみ海に浮かび橋が架かっている。葦原だった内海の干潟は
大半埋め立てられ、住宅地や畑地が広がっている。
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