弥助表通りの塀はべんがら塗り
鮎釣りを趣味という範疇で紹介するより、吉野川が動脈となって父の体内を流れていたと言おう。川漁師、遊船、船頭といった川に生きる人たちの後ろ姿を見て育った彼(昭和6年生)にとっては、その道で食べていくことを選ばずとも、その周辺に身を置きながら、ひと時の稼ぎとして、また、その日のたんぱく源として川の幸を食卓に持ち帰り、大家族の胃袋を補った。若い頃身についたそうした狩猟(漁)・採集の文化行動は、結婚しサラリーマンとなったその後も、休日のみならず、出勤前後の空白時間をもすっかり塗りつぶした。もはや、父の鮎釣り・鮎漁は趣味ではない。私たち家族も、食材として鮎を胃に取り込んだ。 あれから何十年たっただろう。吉野川(五條)は水量・水質を落とし、桜鮎の味のみならず魚影までも薄めてしまった。そして、父もすっかり鮎竿を手にしなくなった。わが家の食卓に、天然鮎は上らなくなった。それでも、舌というのはしたたかで、脂にまみれた養殖鮎を鮎としてうけつけない。父や母が元気な間に、もう一度、美味しい天然鮎を食べさせてあげたいというのが、私の願いであった。 実は、少し前の朝日新聞(奈良版)で、村上春樹氏も訪れたこともあるという「つるべすし弥助」の存在を知った。天然鮎を食べさせるお店で、隣町の下市にあるという。村上氏は、講談社の文芸雑誌「群像」(1983年1月号)で季語暦語「奈良の味」というエッセイを寄せ、このお店をこう紹介している。
(京都の食は)見ばえだけ立派で味に心がこもっていなくて、値段が高い。おまけに「東京の人に味なんかわかりますかいな」という態度がミエミエである。実に腹立たしい。地下鉄ができると街はみんな駄目になってしまう。最近では京都に行っても「三嶋亭」で肉を買って、錦小路で野菜を買って(えび芋がなくては冬が来ない)、それでおしまい。家に帰って自分で料理した方がよほど気がきいている。 それに比べて奈良の料理は決して凝ったものではないのだけれど、そのぶん素朴で、不思議に心になじむところがある。田舎料理といえば田舎料理だけど、ここにはまだ生活の匂いのようなものがある。値段も安いし、観光客の数も京都ほど多くない。 今回の収穫は矢田寺の宿坊と吉野の「弥助」の鮎料理と二階堂の「綿宋」のうなぎ料理だった。 (中 略) 「弥助」は有名な料理旅館だから御存知の方も多いと思う。ちょっと季節外れではあったけれど、僕は鮎料理が大好きだから、全品鮎料理なんていうお膳を見ると実に感動してしまう。鮎子も美味い。
「ここだ!」早速電話すると、10月下旬でも天然鮎を食べさせるという。夜7時の予約だったので下市の旧街道筋はひっそりと静まり真っ暗であったが、紅殻仕上げの塀がほんのりと浮かび上がっていた。昭和12年の下市大火により焼失した後、再建されたお店は木造三階建。磨かれたガラス戸、雑木掛けの行き届いた板間や階段を上って3階に通されると、ライトアップされた裏山が飛び込んできた。そこには岩盤を利用した日本庭園が施され、3階の客室から真正面に、そして見上げるように植栽を臨むことができる。3階からは木橋が架けられ、庭を散策することもできる。もはやこの時点で、父母、私たちは感動してしまった。(本番はこれから、まだ早い。) 実はこの「弥助」、歌舞伎ファンには聖地の1つとして人気があることを、このあと知る。『義経千本桜・鮨屋の段』は、歌舞伎や文楽でも演目として名高い。その物語はこう始まる。
「さて、時は源氏の天下。源平合戦に敗れた平家一門の残党狩りが始まっている。舞台は吉野のつるべ鮨屋。この家に、平惟盛が弥助と名をかえて下男としてかくまわれている。鮨屋の主人弥左ェ門の娘お里は、今宵、弥助と祝言だと大はしゃぎ。そこへ、この屋の長男で今は勘当の身となっているいがみの権太が金をせびりにやってきた。…」
この演目の舞台「吉野のつるべ鮨屋」こそ、このお店「弥助」そのものなのだ。創業800有余年とうたっているのはそうした由縁だろうが、あくまでも『吉野千本桜』の脚本上の話らしい。しかし、先の弥助庭園内には、維盛塚・お里黒髪塚・お里姿見の池等の遺跡があり、近隣には権太の墓・小金太の墓まである。歌舞伎ファンからしてみれば、ここで鮎料理に舌鼓をうち、所縁の場所をまわるという趣向はこたえられないだろう。吉川英治氏も昭和30年に来訪し、「浴衣着て ごん太に似たる 男かな」という句を残している。 私の両親が、このお店の歴史にどれだけ興味を持ったかはさておき、いよいよ鮎料理だ。 今回注文したのは、天然あゆ懐石。それでは、お品書き...。 ○前菜 ○刺身(※夏はあゆの刺身) ○鮎の塩焼き ○小鉢物 ○鮎の唐揚げ野菜あんかけ ○焼鮎ちりめん山椒鮨、赤だし ○フルーツ、鮎菓子