『菅笠日記』3月7日(3日目)
談山神社を参拝した後、 宣長は、多武峰から龍門の滝
へ行きたいと考えていた。しかし、道案内の者は、その道は遠く険しいと聞き、
また、吉野山の桜の盛りが過ぎたとも聞かされ、気が急いてスルーしてしまった。ところが、千股の宿で、もう一度龍門の滝のこと
を尋ねると、案外近かった。それが随分口惜しかったのか、2回目の意気込みは並々ならぬもので、リベンジを果たしている。2回目の吉野山行きは、『紀見のめぐみ』(1794年)に記されている
。
宣長一行は、まず、冬野から竜在峠をめざす。私の足で1時間強。竜在峠手前の茶屋から細峠に至る道があり、龍門の滝が近いと聞いておれば、ここから平尾に向かったかもしれない。しかし、吉野山の桜も気になり、結局、滝畑経由で千股に向かった。
竜在峠から千股までは、2時間弱を要した。
では、ここから原文を載せながら、宣長が『菅笠日記』に書き留めた建造物や風景を写真で紹介したい。 |
|
吉野へは。この門のもとより。左にをれて。別れゆく。<※13>はるかに山路をのぼりゆきて。手向に茶屋あり。<※14>やまとの国中見えわたる所也。なほ同じやうなる山路を。ゆきゆきて。又たむけにいたる。<※15>こゝよりぞよしのゝ山々。雲ゐはるかにみやられて。あけくれ心にかゝりし花の雲。かつがつみつけたる。いとうれし。 |
|
|
|
|
|
|
|
西門跡を出て左折れると、現在は車道をまたぐように橋が架かり冬野に至る。<※13> |
|
家屋の軒先を通って竜在峠に至る古道。かつては茶屋だったのかもと想像してみる。<※14> |
|
|
|
この建屋には「茶屋跡」との表示があり、冬野から来た旅人は、鹿路・細峠・竜在峠それぞれに至ることのできる辻である。 |
|
三角点752.3mは「城ヶ峰」との名がある。現在、展望はきかないものの、宣長の頃には吉野の山々が見えたのかもしれない。 |
|
|
|
竜在峠は、昭和3年に吉野行きの電車が開通するまで、多くの人が行き交った。右をとると芋峠方面。<※15> |
|
明治初期には、この峠に旅館1軒、茶店2軒を含む10軒の集落があったそうで今も石垣が残る。 |
|
|
|
竜在峠に近い集落跡には、一昔前の文様と思われる磁器や本瓦が散在していた。 |
|
かつての竜在峠集落を潤した水源は、やがて滝畑集落の人々にとっても潤沢な生活水となる。<※16> |
|
|
|
さてくだりゆく谷かげ。いはゞしる山川のけしき。<※16>世ばなれていさぎよし。たむのみねより一里半といふに。瀧の畑といふ山里あり。<※17>まことに瀧川のほとり也。又山ひとつこえて<※18>の谷陰にて。岡より上市へこゆる道とゆきあふ。<※19>けふは吉野までいきつべく思ひまうけしかど。とかくせしほどに。春の日もいととく暮ぬれば。千俣といふ山ぶところなる里にとまりぬ。こよひは。<※20>
ふる里に通ふ夢路やたどらましちまたの里に旅寝しつれば |
|
|
|
|
|
|
|
滝畑春日神社 |
|
現・滝畑集落<※17> |
|
|
|
かつての滝畑集落跡と思われる幾重もの石垣だが、その後、針葉樹が植林されている。 |
|
滝畑の滝に隣接して滝畑不動明王が祀られている。滝と不動明王は、修験道の名残か。 |
|
|
|
龍門の滝へは、滝畑からだと志賀に下ればよいが、宣長は山一つ(弓立峠)越え、千股から吉野山に向かった。<※18> |
|
左手が芋峠そして明日香に至る古道で、現在は、それと並行して車道が走る。<※19> |
|
|
|
芋峠から下りてくると千股集落の入口に千股持経塚観音堂が建つ。周辺には千股川せせらぎ公園が隣接し、トイレも常備。 |
|
千股集落の北側入口付近に祀られた山の神。奥吉野に入ると、山の神の祀り方に地域色が見られる。 |
|
|
|
茅葺きだったと思われる民家に土壁の土蔵。宣長の時代まで遡るには無理があるだろうか。 |
|
奥左手は、かつて「下ん茶屋」という宿だったそうで、千股には計3軒の宿があったという。<※20> |