『菅笠日記』を携え、多武峯を歩く

1803年(享和3)建立の東大門(県指定文化財)。 妙楽寺子院護国院の山門が移設されたという。<※4>

 江戸時代の国学者で『古事記伝』などの著述がある本居宣長(1730〜1801)は、明和9年3月5日、43歳の年に故郷の松阪を発ち10日間の旅に出た。初瀬、多武峰、吉野、壺阪寺、飛鳥、大神神社など、まさに大和の旅であったが、その中でも一番の目的地は吉野水分神社だったのではないだろうか。父が同社に祈誓した授かった子だと聞かされ育った宣長は、40歳の頃から毎日遙拝していたようである。吉野入りした明和9年3月8日は西暦1772年4月10日と換算でき、吉野山の花見にあわせたのかもしれない。この時の紀行文が『菅笠日記』(すががさにっき)で、1795年(寛政7)に刊行されている。この時の携行品に、『大和国中 独案内(ひとりあんない)』(1678年刊/木版の大和国概略地図)と『和州巡覧記』(貝原益軒著)が含まれ、旅のガイドとしていたようだ。(参考:本居宣長記念館Websiteより)
 一方、 芭蕉は、1687年10月に伊賀に帰郷し、1688年8月に江戸に戻るまでの紀行文及び句集として、『笈の小文』が知られている。彼の死後、門人川井乙州によって編纂・刊行されており、芭蕉自身が書いたものではないが、真蹟短冊や書簡などをもとにしており、文芸作品としての価値は高い。その時の旅で、「多武峯−臍峠(細峠)−龍門の滝 」の道順が記されており、およそ100年のタイムラグがある二人の行程を、下の地図上に示してみた。

明和九年(1772年)

『菅笠日記』の旅程

3月5日 1日目 松坂、八太、阿保峠、伊勢地<泊>
3月6日 2日目 伊勢地、阿保、名張、大野寺、萩原(はいばら)<泊>
3月7日 3日目 萩原、吉隠(よなばり)、初瀬、多武峰、滝畑、千俣<泊>
3月8日 4日目 千俣、上市、吉野入り、吉野水分神社、箱屋某<泊>
3月9日 5日目 吉野滞在、筏流し、滝、岩飛び見物、箱屋某<もう一泊>
3月10日 6日目 吉野で如意輪寺参詣、壺坂寺、橘寺、飛鳥の岡<泊>
3月11日 7日目 岡、飛鳥、天香久山、見瀬<泊>
3月12日 8日目 見瀬、慈明寺、耳成山、大御輪寺、大神神社、初瀬、萩原<泊>
3月13日 9日目 萩原、石割り坂、田口、桃の俣、菅野、石名原<泊>
3月14日 10日目 石名原(宣長は駕篭)、飼坂、多気、柚原、堀坂峠、松坂帰着

『菅笠日記』3月7日(3日目)
 さて、長谷寺を拝観した宣長一行は、多武峰の談山神社をめざした。 同社は、大化改新談合の地の伝承とともに、長男で僧の定恵によって、鎌足の墓もこの地に改葬され祀られたのが始まりで、その後、講堂や十三重塔が造営され妙楽寺と号した。956年には比叡山延暦寺の末寺となったが、大和の地においては興福寺との抗争など戦乱に巻き込まれる。江戸幕府からは3,000石余の朱印領が認められ 、神仏習合により妙楽寺と聖霊院(神社)が一体となっていた。1869年(明治2年)、廃仏毀釈によって多くの子院とともに妙楽寺は廃され 、神社だけが残り談山神社と改称された。ただ、十三重塔をはじめ妙楽寺の寺院建築はそのまま用いられ、今なお神仏習合の境内である。本殿は幾度も造替されており、1734年に造替された時の旧本殿は移築され惣社となっている。 これからしばらくして宣長は訪れたようだ。
 ただ、この日は萩原(榛原)を出発して長谷寺を参拝し、多武峯、竜在峠を経て、千股(吉野町)まで歩いている。多武峯から千股まで歩いてみたが、私の足で、3時間あまりを要した。となると、談山神社では、ゆっくり参拝する時間はなかったと思われ、日記には詳細な情景描写はあるものの、古典を引用してのおもしろいエピソードはほとんど見られない。
 では、ここから原文を載せながら、宣長が書き留めた建造物や風景を写真で紹介したい。

かの土橋を渡りては。くら橋川を左になして。ながれにそひつゝのぼりゆく。此川は。たむの峯よりいでゝ。くらはしの里中を。北へながれ行川也。此道に。桜井のかたよりはじまりて。たむのみね迄。瓔珞經の五十二位 といふ事を。一町ごとにわかちて。ゑりしるしたる石ぶみ立たり。<※1>すべてかゝるものは。こしかたゆくさきのほどはかられて。道ゆくたよりとなるわざ也。

   
 

桜井市上之宮に立つ談山神社一ノ鳥居(1724年建立)。大鳥居左手に、町石の起点となる一基目が見られる。

 

1654年(承応3)に、一ノ鳥居から摩尼輪塔まで、参道に沿って五十二基の町石が設置され、今も点在する。<※1>

   

なほ同じ川ぎしを。やうやうにのぼりもてゆくまゝに。いと木ぶかき谷陰になりて。ひだり右より。谷川のおちあふ所にいたる。瀧津瀬のけしき。いとおもしろし。<※2>そこの橋をわたれば。すなはち茶屋あり。こゝははや多武の峯の口也とぞいふ。さて二三町がほど。家たちつゞきて。

   
 

落差5〜6mの不動延命の滝。この滝の少し下流で寺川本流と合流する。<※2>

 

不動明王が彫られた花崗岩の「破(われ)不動尊」。慶長13年談山が鳴動した時に破裂したとの伝承がある。

   

うるはしき橋あるを渡り。<※3>すこしゆきて。惣門にいる。<※4>左右に僧坊共こゝらなみたてり。御廟<※5>の御前は。やゝうちはれて。山のはらに。南むきにたち給へる。いといかめしく。きらきらしくつくりみがゝれたる有様。めもかゞやくばかり也。十三重の塔<※6>。又惣社<※7>など申すも。西の方に立給へり。すべて此所。みあらかのあたりはさらにもいはず。僧坊のかたはら。道のくまぐままで。さる山中に。おち葉のひとつだになく。いといときらゝかに。はききよめたる事。又たぐひあらじと見ゆ。<※8>桜は今をさかりにて。こゝもかしこも白たへに咲みちたる花の梢。ところからはましておもしろき事。いはんかたなし。さるはみなうつしうゑたる木どもにやあらん。一やうならず。くさぐさ見ゆ。そも此山に。かばかり花のおほかること。かねてはきかざりきかし。
谷ふかく分いるたむの山ざくらかひあるはなのいろを見るかな

   
 

屋形橋 (昭和54年に再建され、その後、道路拡幅工事によって場所も移動している。<※3>

 

乾元二年(1303年)の銘がある摩尼輪塔(国の重要文化財)。大鳥居から始まった町石は、ここが終点(52基目)。

 

江戸時代には、5度本殿が造替されているが、1668年の造替時は、前の本殿は東殿(現・恋神社)に移築された。上画像は楼門と拝殿で、本殿は写っていない。<※5>

 

木造十三重塔(国指定重要文化財)。現在のものは、1532年(享禄5)に再建されたものである。<※6>右に写り込んでいる屋根は、神廟拝所。

 

総社(惣社)の本殿と拝殿。1734年に御廟の本殿が造替された時、前の本殿が惣社に移築された。<※7>

 

子院や僧坊だったと思われる建物や石垣が、今も参道沿いに数多く残る。<※8>

寛政3年(1791年)刊の『大和名所図会』に描かれた多武峰は、本居宣長が訪れた頃(1772年)とほぼ同時代である。江戸時代は、神仏習合により、妙楽寺と聖霊院(神社)が一体となっていたが、明治2年の廃仏毀釈によって神社のみが残 り現在に至る。

   

鳥居<※9>のたてるまへを。西ざまにゆきこして。あなたにも又惣門<※10>あり。そのまへをたゞさまにくだりゆけば。飛鳥の岡へ五十町の道とかや。<※11>その道のなからばかりに。細川といふ里の有ときくは。南淵の細川山とよめる所にやあらん。又そこに。此たむの山よりながれゆく川もあるにや。<※12>【萬葉九に うちたをりたむの山霧しげきかも細川の瀬に浪のさわげる】たづねみまほしけれど。えゆかず。

   
 
御廟に至る石段と鳥居。<※9>   西門跡には其石だけが残る。<※10>
 

飛鳥の岡には、西国三十三番観音霊場の第七番札所岡寺がある。<※11>

 

多武峰よ り、手前から上(かむら)、そして、細川集落が望め、家並みに沿って細川(現・冬野川)が流れる。<※12>

>『菅笠日記』を携え、竜在峠を越える