【篠原の成り立ち】
十津川村の北に位置する旧大塔村(現・五條市大塔町)は、古くから次の3つの地域に分かれてとらえられていた。
○「一村(いちむら)」:天辻・簾・阪本・中原
○「十二村(じゅうにむら)」:小代・猿谷・飛養曽・堂平・引土・殿野・閉君・辻堂・宇井・清水・中峯・中井傍示
○「舟ノ川郷(ふなのがわごう)」:篠原・惣谷
一村十二村は十津川筋で、南の十津川と北の五條を結ぶ交通路の途上にある。しかし、舟ノ川郷はこれらと趣を異にし、婚姻や物流なども含めて川瀬峠を越えた天川村と近い関係にある。
篠原が拓かれたのは400〜500年前とも言われ、山を渡り歩く木地師の集団が、いつ頃かここに落ち着くようになったのではないかと考えられる。この地域の木地師は主に坪杓子を生産していたようだが、材としてはクリの木を利用する。木地師はどこの山のものでも切ってよかったが、そうした特権の正当性を主張するためには何かしらの後ろ盾が必要であった。この村の木地師たちは近江筒井に出向き、惟喬親王千回忌の寄付をすることで、慶応4年、日本中の木地師を支配する公文所取締方から、木地職杓子職の認可を受けている。その時の文書は今も村に残っている。
実際、戦後しばらくまでは坪杓子を生業とする人たちがたくさんいた。また惣谷は、篠原の枝村だと言われ、お互い親戚関係をもつ家が多いが、ここも木地師の集落である。坪杓子を生産する職人は、平成に入って一人となってしまったが、惣谷の方に在住している。戦後、この地域の山林には、製紙会社による伐採や営林署(現・林野庁森林管理署)などの造林事業が入り、木地屋に取って代わることとなる。
一方、この地域の農業として、こちらも戦後しばらくまでは焼畑(あるいはキリハタとも言う)が行われていた。1年目はヒエ、2年目はアワ、3年目はアズキを栽培し、3〜4年で山に返したそうだ。この集落の南の尾根を越えると十津川村旭となるが、その辺りまで焼畑に行ったと聞く。また、戦争中は、食糧不足から盛んに焼畑が行われ、高野辻周辺の山林も借りていたらしい。木地屋の仕事も焼畑も、集落からは離れての労働となるため、山小屋を作って寝泊まりしたという。
このように、かつて紀伊山地に見られた山村生活の一例が、最近まで舟ノ川郷には残っていた。また、奈良県指定の無形文化財として「篠原踊り」や「惣谷狂言」が今も伝わるが、一説によると室町末〜江戸時代初めに、天川の方から舟ノ川地域に伝播したようだ。山も畑も雪に閉ざされた旧正月の頃に、当時の人々の余興として親しまれたふるい形の芸能とも考えられる。民俗学者にとっては、生きた資料の宝庫であり、宮本常一氏をはじめ多くの研究者が熱心に足を踏み入れている。
私が興味を持ったのは、この地域の伝説である。伝説に登場する巨石や滝、屋敷跡などは、村人によってその存在を知ることができる。写真は、篠原在住の昭6年生の男性に案内していただいた時のものである。ちなみに、鎌倉殿の屋敷跡には、川瀬峠へ登る道の小口にあり、昭和30年頃までは大きなカヤの木の横に祠もあったという。ただ、村人はだれもその祠を祀らず、朽ちたまま修復されることはなかったらしい。
この山村も、20軒ほどまで減り30代以下の人口はゼロという、いわゆる限界集落である(2015年現在)。今なお細々とこの地域に根づいている山村の文化は、民俗学的には宝庫であるものの、一方で年々風化を続けている。
【久太郎石】
篠原より南の方へ入っていくと「久太郎石」と呼ばれている大きな石がある。この石は地についている部分がほんのわずかで、一見簡単に動かせそうに見える。昔、この村の久太郎という力持ちが「こんな石ぐらい動かしてやる」と言って押してみたが、びくともしなかったそうである。それ以来、この石を「久太郎石」と呼ぶようになったという。
※ 1944(昭和19)年の東南海地震(M7.9/奈良市震度5)か1946(昭和21)年の南海地震(M8.0/橿原市震度5)で倒れ、現在のように横倒しになったと言う。
【篠原殿】
昔、この村に落人の篠原殿という武士がやって来た。篠原殿はかなり位の高い武士で、この地に来て村のためにいろいろ貢献したという。村の人たちのもてなしに、図に乗った篠原殿はしだいに横暴になり、はらみ女の腹を割いてみたいと言い出した。そこで村人は恐ろしくなり、皆で相談して篠原殿を殺すことにした。そして、偽の毒流しの宴会を開き、細工をした縁台の上へ篠原殿をのせ、酒に酔ったところを大滝へ突き落とした。その時、這い上がろうとする篠原殿を、川上の岩へ太郎兵衛が、川下の岩に次郎兵衛がのり、竹槍で突き刺したという。今でも大滝には、その太郎兵衛石と次郎兵衛石がある。
この村の名は、篠原殿が来てから、川瀬から篠原に変わった。また、大滝は篠原滝とも呼ばれている。
【くぼ山のべっぴん】
昔、篠原のくぼ山と呼ばれる所に民家が数軒あり、その中の一軒の家には村一番の美人がいたそうだ。その家へ毎晩ある男がやってきて、朝、帰って行った。心配した母親は、その男の着物の袖にふじの糸を通した針を刺しておいた。翌朝、その糸をたぐってみると大滝まで続いていた。以来、大滝には主がいると言われている。その後、その女性は、たらいいっぱいのぶどう子を産んだという。
<参考文献>
『中京民族・第9号〜奈良県吉野郡大塔村篠原調査特集号〜』中京大学郷土研究会S47.5.1.発行
『宮本常一著作集34・吉野西奥民俗採訪録』宮本常一 1989.5.25.発行 |