小説『吉野葛』の三之公源流を行く

 
三之公行宮跡(さんのこあんぐうあと)   尊義親王御墓

 谷崎潤一郎の『吉野葛』(『中央公論』昭和6年1・2月号初出)は、幼い頃に失われた母を求め、過去に向かって一歩一歩たどり進めていく津村と、歴史小説執筆のため吉野川源流地域を探訪していく「私」が、一見異なった方向に興味を求め歩き続けているように見えながら、実は「源流行(自己の内面世界を生の根源にまで遡行する)」という点で密接にかかわっ ていく構成を施した小説である。その中で、「私」は後南朝秘史に興味を持ち、南北朝合体後も再び皇位継承をめぐって吉野に潜行した、後亀山天皇の玄孫の万寿寺宮(尊義親王)とその子北山宮(尊秀親王)、河内宮(忠義親王)らの足跡を求めて旅している。
 今回、私は、その小説の中の「私」の足跡をさらに追いかけるべく三之公川源流に入ると共に、後南朝の歴史をあらためて紐といてみた。まずは、後南朝の歴史を小説『吉野葛』から引用してみる。

 私が大和の吉野の奥に遊んだのは、すでに二十年ほどまえ、明治も末か大正の初め頃のことであるが、今とは違って交通の不便なあの時代に、あんな山奥、―近頃の言葉でいえば「大和アルプス」の地方などへ、何しに出かけていく気になったか。―この話は先ずその因縁から説く必要がある。
 読者のうちには多分御承知の方もあろうが、昔からあの地方、十津川、北山、川上の荘あたりでは、今も土民に依って「南朝様」あるいは「自天皇様」と呼ばれている南帝の後裔に関する伝説がある。この自天皇、―後亀山帝の玄孫に当らせられる北山宮という方が実際におわしましたことは専門の歴史家も認めるところで、決して伝説ではない。ごくあらましを掻い摘まんでいうと、普通小中学校の歴史の教科書では、南朝の元中九年、北朝の明徳三年、将軍義満の代に両統合体の和議が成立し、いわゆる吉野朝なるものはこの時を限りとして、後醍醐天皇の延元元年以来五十余年で廃絶したとなっているけれども、そののち嘉吉三年九月二十三日の夜半、楠二郎正秀という者が大覚寺統の親王万寿寺宮のを奉じて、急に土御門内裏を襲い、三種の神器を偸み出して叡山に立て籠もった事実がある。この時、討手の追撃を受けて宮は自害し給い、神器のうち宝剣と鏡とは取り返されたが、神璽のみは南朝方の手に残ったので、楠氏越智氏の一族等は更に宮の御子お二方を奉じて義兵を挙げ、伊勢から紀伊、紀伊から大和と、次第に北朝軍の手の届かない奥吉野の山間僻地へ逃れ、一の宮を自天皇と崇め、二の宮を征夷大将軍に仰いで、年号を天靖と改元し、容易に敵の窺い知り得ない峡谷の間に六十有余年も神璽を擁していたという。それが赤松家の遺臣に欺かれて、お二方の宮は討たれ給い、遂に全く大覚寺統のおん末の絶えさせられたのが長禄元年十二月であるから、もしそれまでを通算すると、延元元年から元中九年までが五十七年、それから長禄元年までが六十五年、実に百二十二年ものあいだ、ともかくも南朝の流れを酌み給うお方が吉野におわして、京方に対抗されたのである。
 遠い祖先から南朝方に無二のお味方を申し、南朝びいきの伝統を受け継いで来た吉野の住民が、南朝といえばこの自天皇までを数え、「五十有余年ではありません、百年以上もつづいたのです」と、今でも固く主張するのに無理はないが、私もかつて少年時代に『太平記』を愛読した機縁から南朝の秘史に興味を感じ、この自天皇の御事蹟を中心に歴史小説を組み立ててみたい、―と、そういう計劃を早くから抱いていた。
 川上の荘の口碑を集めた或る書物に依ると、南朝の遺臣等は一時北朝方の襲撃を恐れて、今の大台ケ原山の麓の入の波から、伊勢の国境の大杉谷の方へ這入った人跡稀な行き留まりの山奥、三の公谷という渓合いに移り、そこに王の御殿を建て、神璽はとある岩窟の中に匿していたという。また、『上月記』、『赤松記』等の記す所では、予め偽って南帝に降っていた間島彦太郎以下三十人の赤松家の残党は、長禄元年十二月二日、大雪に乗じて不意に事を越し、一手は大河内自天皇御所を襲い、一手は神の谷の将軍の宮の御所に押し寄せた。王はおん自ら太刀を振って防がれたけれども、遂に賊のために斃れ給い、賊は王の御首と神璽を奪って逃げる途中、雪に阻まれて伯母ヶ峰峠に行き暮れ、御首を雪の中に埋めて山中に一と夜を明かした。しかるに翌朝吉野十八郷の荘司等が追撃して来て奮戦するうち、埋められた王の御首が雪中より血を噴き上げたために、たちまちそれを見附けだして奪い返したという。以上の事柄は書物に依って多少の相違はあるのだが、『南山巡狩録』、『南方紀伝』、『桜雲記』、『十津川の記』等にも皆載っているし、殊に『上月記』や『赤松記』は当時の実戦者が老後に自ら書き遺したものか、あるいはその子孫の手になる記録であって、疑う余地はないのである。一書に依ると、王のお歳は十八歳であったといわれる。また、嘉吉の乱に一旦滅亡した赤松の家が再興されたのは、その時南朝の二王子を弑いて、神璽を京へ取り戻した功績に報いたのであった。

      (99代)後亀山天皇―<後南朝@>小倉宮太仁天皇―A万寿寺宮中興天皇(尊義親王)
                                                                                     ├B北山宮自天皇(尊秀親王)
                                        └  河内宮(忠義親王)

 南北朝の争乱は、将軍義満のときの合体(1392年)で解決していたものと軽く素通りしていた私。
しかし、北朝系の後小松天皇(第100代)に正皇位を譲り京都へ還幸した南朝系の後亀山法皇(第99代)は、監視の目が厳しく南朝系への冷遇に、早くも1410年に再び吉野へ潜行した。皇位継承を約束されていたその子小倉宮もそれに続くことになり、いわゆる「後南朝」が始まるというわけだ。
 さて、小説の「私」は、谷崎潤一郎本人なのか、また仮に本人であったとしても実際にこの行程をたどったのかどうか、私には計りかねるが再び小説より引用。

 四日目までは道の嶮しさも苦しさも「なあに」という気で押し通してしまったが、ほんとうに参ったのはあの三の公谷へ這入った時であった。尤も彼処へかかる前から「あの谷はえらい処です」とか「へえ、旦那は三の公へいらっしゃるんですか」とか、たびたび人にいわれたので、私も予め覚悟はしていた。それで四日目には少し日程を変更して五色温泉に宿を取り、案内者を一人世話してもらって明くる日の朝早く立った。 (中略)
 私は午後一時頃に八幡平の小屋に行き着き、弁当箱を開きながらそれらの伝説を手帳に控えた。八幡平から隠し平までは往復更に三里弱であったが、この路はかえって朝の路より歩きよかった。しかしいかに南朝の宮方が人目を避けておられたとしても、あの谷の奥は余りにも不便すぎる。「逃れ来て身をおくやまの柴の戸に月と心をあわせてぞすむ」という北山宮の御歌は、まさか彼処(あそこ)でお詠みになったとは考えられない。要するに三の公は史実よりも伝説の地ではないであろうか。
その日、私と案内者とは八幡平の山男の家に泊めてもらって、兎の肉を御馳走になったりした。そして、そのあくる日、再び昨日の路を二の股へ戻り、案内者と別れてひとり入の波(しおのは)へ出て来た私は、ここから柏木まではわずか一里の道程だと聞いていたけれど、ここには川の渕に温泉が湧いているというので、その湯へ浸りに川のほとりへ行ってみた。二の股川を合わせた吉野川が幾らか幅の広い渓流になった所に吊り橋が懸かっていて、それを渡たると、すぐ橋の下の川原に湯が湧いていた。が、試みに手を入れると、ほんの日向水ほどのぬくもりしかなく百姓の女たちがその湯でせっせと大根を洗っているのである。
  「夏でなければこの温泉へは這入れません。今頃這入るには、あれ、あすこにある湯槽へ汲み取っ   
  て別に沸かすのです」
 と、女たちはそういって、川原に捨ててある鉄風呂を指した。

 現代は、こんなに苦労しなくても三之公集落までは自動車が入り、車止め(明神出合)から隠し平らまでの登山道も整備されている。この谷のヤマヒルの多いのは、地元でも有名で、登山靴の隙間から入ってきた敵に、たっぷりとO型を献上した。隠し平を経て尊義親王の墓まで約1時間30分。こうした歴史を知らずに登れば、明神滝だけが目玉の味気ない軽登山になりそうだが、後南朝の悲哀史を知って登れば、これがただの登山にならないわけだ。少なくとも『吉野葛』は携えておきたい。(いや、読み終えておきたい。)
 小説の最後は、こう結ぶ。

 ちょうど私がその鉄砲風呂の方を振り返ったとき、吊り橋の上から、
  「おーい」
 と呼んだ者があった。見ると、津村が、多分お和佐さんであろう、娘を一人うしろに連れてこちらへ渡って来るのである。二人の重みで吊り橋が微かに揺れ、下駄の音がコーン、コーンと、谷に響いた。

 ついにお和佐さんという源流にたどりつきその彼女を伴ってきた津村と、三の公川源流を極め後南朝の秘史を持ち帰ってた「私」が、入の波で再び遭遇するのである。

 
   
 
明神滝   入之波温泉(現在は、大迫ダムの河岸に)