【『懐風藻』にみる神仙龍神山】
中国より伝わった道教やその中核の1つである神仙思想は、日本の思想や文学にどのような影響を及ぼしたのだろうか。例えば、奈良時代に編纂された日本最古の漢詩集『懐風藻』には、吉野川流域を神仙峡に重ねたいわゆる「吉野詩」がたくさん見られる。なかでも、大友皇子の第1皇子である葛野王の次の詩は興味深い。
五言 遊龍門山 一首 (『懐風藻』より)
命駕遊山水
長忘冠冕情
安得王喬道
控鶴入蓬瀛
大意は、「馬を命じて竜門山の山水に遊び、しばらく冠位の煩わしさを忘れたい。ここで王子喬のような仙術を会得し、鶴に乗って(仙人が住むという)蓬莱や瀛州へ行きたい。」となるだろうか。この詩では、龍門山(現・竜門岳)を日本の蓬莱山的仙境の1つとして重ねている。大峯山をはじめとする吉野の山地は、役行者が修行した正に仙人の住処であり、一方で、壬申の乱の出発点となった聖地でもある。今なお、吉野熊野国立公園として希有な大自然を抱いた吉野川以南の川や山を、広く仙境とするのは容易に想像できる。しかし、竜門岳や龍門の滝が、ピンポイントで聖地の1つとして
、その光栄を賜ることができたのはどうしてだろう。
竜門岳は標高904mで、山頂には高皇産霊神を祀る祠と一等三角点がある。現在の竜門岳は、人工林の中を直登していく登山ルートが整備されており、お世辞にも先の漢詩のような蓬莱山的風光明媚な姿はうかがえない。ちなみに、
「三百名山」という称号は授かっている。
一方、現在の龍門の滝は、さほど水量もなくやせ細っており、登竜門というにはほど遠い。それとも、かつては水量も今以上にあり、落葉広葉樹の森の中に山桜などの花が咲き誇っていたのだろうか。
さらに、今は基石だけが残る龍門寺跡だが、7世紀後半に義淵僧正によって建立され、金堂、三重塔、六角堂、僧房などの伽藍が立ち並んでいたという。応仁の乱の時に、大和国に攻め込んできた細川政元の家臣赤沢朝経が龍門郷を焼き討ちにしており、この頃から龍門寺は衰え廃寺となったらしい。ただ、寺院の参道に
建てたと思われる1333年(元弘3)銘の美しい「下乗石」が残っており、当時の旺盛を忍ぶことができる。
『本朝神仙伝』では、この寺院には大伴仙・安曇仙・久米仙といった仙人が修行していたようで、久米仙のユニークな逸話は有名であり、現在、寺院跡に到る林道には「久米仙人窟趾」の石碑
も見られる。
【『笈の小文』の芭蕉と歩く】
芭蕉が、1687年10月に伊賀に帰郷し、1688年8月に江戸に戻るまでの紀行文及び句集として、『笈の小文』が、彼の死後、門人川井乙州によって編纂・刊行されている。芭蕉自身が書いたものではないが、彼の真蹟短冊や書簡などをもとにしており、文芸作品としての価値は高い。
この旅で、芭蕉自身二度目の吉野山訪問となっているが、その行程として、『笈の小文』に「多武峯−臍峠(細峠)−龍門の滝
」の道順が記されている。この記述をもとに、当時の古道を推察してみようと思い立ったが、もう少しヒントはないかと調べているうちに、句集『曠集』に収められている「花の陰謡に似たる旅ねかな」は、「大和国草尾村にて」の前書きがあり、これは平尾村の誤りだったのではないかという指摘
にたどりついた。すると、「多武峯−細峠−平尾−龍門の滝
」の道順となる。
一方、多武峯から細峠へは、「多武峯−冬野−雲井茶屋−細峠」という行程と、「多武峯−鹿路−細峠」の二通りが考えられる。
細峠には、芭蕉の句碑「雲雀より空にやすらふ峠かな」が建てられており、竜在峠からの尾根道とクロスする辻になっている。この細峠(辻)
を南に越えると、やがて廃村となった細峠集落跡に至る。
集落の入口には庚申塔、そして屋敷跡と思われる石垣が道沿いに幾つも見られる。また、昭和42年建立の廃村記念碑なども建てられていた。この細峠集落跡から三津集落(旧鹿路トンネル南口)に至る道が林道として整備されているが、廃村記念碑の前にも南進する下り坂が残っており、平尾まではこちらが最短で
このルート選択したのではないかと思われる。俳句に詠まれているヒバリは草原や畑地が好きで、人里近いところでよく見られる野鳥だが、細峠集落の空に舞うヒバリを詠んだものだろうか。
三輪 多武峯 臍峠(細峠) 多武峯ヨリ龍門ヘ越道也 (『笈の小文』より)
雲雀より空にやすらふ峠哉
この後、芭蕉は、吉野山花見の前に龍門の滝に立ち寄っており、 滝壺近くの河岸には、以下の芭蕉の2句を刻んだ句碑が建てられている。
龍門 (『笈の小文』より)
龍門の花や上戸の土産にせん
酒のみに語らんかゝる瀧の花
【『紀見のめぐみ』の宣長と歩く】
江戸時代の国学者で『古事記伝』などの著述がある本居宣長(1730〜1801)は、1772年に吉野入りしており、この時の旅が『菅笠日記』として残っている。ただ、
この時は、多武峰から龍門の滝への道は遠く険しいと聞き、また、吉野山の桜の盛りが過ぎたとも聞かされ、気が急いてスルーしてしまった。このこと
が随分口惜しかったのか、2回目の意気込みは並々ならぬもので、リベンジを果たしている。2回目の吉野山行きは、『紀見のめぐみ』(1794年)に記されているが、念願の龍門の滝を訪れた興奮からかたくさんの歌を詠んでいる。私にとっては、仙人や古の人を追いかけながらこの地に足を運んだという宣長の歌がとても共感しやすい。
十二日龍門の瀧を立よりて見る (『紀見のめぐみ』より抜粋)
昔よりよよに流れて瀧の音も その名もたかき仙人のあと
よりて見しいにしへ人の言の葉に かけて名高き瀧の白いと
此瀧をけふきて見れはきて見けむ いにしへ人のおもほゆるかも |