古の人と共に訪ねる神仙龍門の滝

津風呂湖から見た竜門岳    
 
1333年(元弘3)銘の下乗石  
 
龍門寺跡の基石   龍門の滝

【『懐風藻』にみる神仙龍神山】
 中国より伝わった道教やその中核の1つである神仙思想は、日本の思想や文学にどのような影響を及ぼしたのだろうか。例えば、奈良時代に編纂された日本最古の漢詩集『懐風藻』には、吉野川流域を神仙峡に重ねたいわゆる「吉野詩」がたくさん見られる。なかでも、大友皇子の第1皇子である葛野王の次の詩は興味深い。

五言 遊龍門山 一首 (『懐風藻』より)
命駕遊山水
長忘冠冕情
安得王喬道
控鶴入蓬瀛


 大意は、「馬を命じて竜門山の山水に遊び、しばらく冠位の煩わしさを忘れたい。ここで王子喬のような仙術を会得し、鶴に乗って(仙人が住むという)蓬莱や瀛州へ行きたい。」となるだろうか。この詩では、龍門山(現・竜門岳)を日本の蓬莱山的仙境の1つとして重ねている。大峯山をはじめとする吉野の山地は、役行者が修行した正に仙人の住処であり、一方で、壬申の乱の出発点となった聖地でもある。今なお、吉野熊野国立公園として希有な大自然を抱いた吉野川以南の川や山を、広く仙境とするのは容易に想像できる。しかし、竜門岳や龍門の滝が、ピンポイントで聖地の1つとして 、その光栄を賜ることができたのはどうしてだろう。
 竜門岳は標高904mで、山頂には高皇産霊神を祀る祠と一等三角点がある。現在の竜門岳は、人工林の中を直登していく登山ルートが整備されており、お世辞にも先の漢詩のような蓬莱山的風光明媚な姿はうかがえない。ちなみに、 「三百名山」という称号は授かっている。
 一方、現在の龍門の滝は、さほど水量もなくやせ細っており、登竜門というにはほど遠い。それとも、かつては水量も今以上にあり、落葉広葉樹の森の中に山桜などの花が咲き誇っていたのだろうか。
 さらに、今は基石だけが残る龍門寺跡だが、7世紀後半に義淵僧正によって建立され、金堂、三重塔、六角堂、僧房などの伽藍が立ち並んでいたという。応仁の乱の時に、大和国に攻め込んできた細川政元の家臣赤沢朝経が龍門郷を焼き討ちにしており、この頃から龍門寺は衰え廃寺となったらしい。ただ、寺院の参道に 建てたと思われる1333年(元弘3)銘の美しい「下乗石」が残っており、当時の旺盛を忍ぶことができる。
 『本朝神仙伝』では、この寺院には大伴仙・安曇仙・久米仙といった仙人が修行していたようで、久米仙のユニークな逸話は有名であり、現在、寺院跡に到る林道には「久米仙人窟址趾」の石碑 も見られる。

【『笈の小文』の芭蕉と歩く】
 芭蕉や本居宣長は、吉野山への花見に乗じて龍門の滝に立ち寄っているが、宣長の方は、1回目の訪問でスルーしてしまったことに随分口惜しかったのか、2回目の意気込みは並々ならぬものであった。さて、彼らには『懐風藻』に詠まれた「龍門山」はどう映ったのか。
 滝壺近くの河岸には、以下の芭蕉の2句を刻んだ句碑が建てられている。1687年から1688年にかけて2回目の吉野山を旅したとき、紀行 文『笈の小文』に収められたものである。

龍門 (『笈の小文』より)
龍門の花や上戸の土産にせん
酒のみに語らんかゝる瀧の花


 『笈の小文』では、「多武峰−冬野−竜在峠−細峠 」の道順を芭蕉が歩いたと言われている。細峠には、旧鹿路トンネルの出口(桜井側・吉野側共にルートあり)付近から20〜30分で登攀できるが、吉野側から歩くと、すでに廃村となった細峠集落跡 に出会う。ここには民家の石垣や庚申信仰の石塔などかつての生活のたたずまいをうかがうことができるが、今は人工林の森に埋もれつつある。江戸時代には、この峠からも竜門岳を望むことができたのかもしれないが、現在は四方 いずれも眺望はきかない。したがって草原や畑地の好きなヒバリの姿は望めず、代わりに針葉樹の好きなヒガラの群れが囀っていた。

三輪 多武峯 臍峠(細峠) 多武峯ヨリ龍門ヘ越道也 (『笈の小文』より)
雲雀より空にやすらふ峠哉

 本居宣長は、2回目の吉野山行きを『紀見のめぐみ』(1794年)に記しているが、念願の龍門の滝を訪れた興奮からかたくさんの歌を詠んでいる。私にとっては、仙人や古の人を追いかけながらこの地に足を運んだという宣長の歌がとても共感しやすい。

十二日龍門の瀧を立よりて見る (『紀見のめぐみ』より抜粋)
昔よりよよに流れて瀧の音も その名もたかき仙人のあと
よりて見しいにしへ人の言の葉に かけて名高き瀧の白いと
此瀧をけふきて見れはきて見けむ いにしへ人のおもほゆるかも

 
竜門岳へ直登する山道   竜門岳山頂の高皇産霊神
 
龍門の滝の芭蕉句碑   細峠の芭蕉句碑
 
細峠集落に残る庚申塔(1821年/文政4年銘)   細峠集落廃村の記念に建てられたものか昭和42年の銘あり