【万葉集に歌われた三輪山】
667年、天智天皇は飛鳥から近江宮へ遷都した。天皇に寵愛された額田王も、その遷都に随行したと考えられ、その時の歌が『万葉集』に見られる。飛鳥から近江に至るルートとして、奈良までは、現在の国道24号線沿いを通る「下ツ道」、国道169号線沿いの「上ツ道」、そしてその真ん中「中ツ道」があり、いずれも一直線であった。ただ、「道の曲がり角ごとに何度でも振り返り別れを惜しみたい三輪山」と詠まれていることや、名残惜しい飛鳥に別れを告げる前に、今一度、大神神社(おおみわじんじゃ)を経由したとするならば、上ツ道のさらに東にある「山辺の道」こそが、この歌の風景として最もふさわしい。実際、景行天皇陵(天理市)付近を通る山辺の道から望む三輪山はとても美しく、この歌の万葉歌碑も建てられている。
額田王、近江の国に下る時に作る歌 (額田王 巻1-0017)
味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも
見つつ行かむを しばしばも 見放さけむ山を 心なく 雲の隠さふべしや
三輪山をしかも隠すか雲だにも 心あらなも隠さふべしや (額田王
巻1-0018)
『万葉集』では、三輪山(三諸山)を歌ったものも多い。崇神天皇の時、杜氏を命じられた高橋邑の活日(いくひ)は、御酒を天皇に捧げて「この神酒は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久」と詠んだ。この故実から、ご祭神は酒造りの神として敬われ、三輪の地は美酒を産み出す酒どころとして「味酒(うまさけ)」がその枕詞となっている。また、大神神社のご神木は杉である。
味酒を三輪の祝(はふり)がいはふ杉 手触れし罪か君に逢ひがたき
(丹波大女娘子 巻4-712)
【記紀のなかの大物主大神】
大神神社のご神体は三輪山そのもので、したがってこの神社に本殿はなく拝殿のみである。
『古事記』によると、大国主神(おおくにぬしのかみ)が国づくりに悩んでいる時に、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が現れ「私を三諸山に祀ればすべてうまくいく」と言ったので、その通りにして難題を切り抜けた。この山には大物主大神が鎮められており、大神神社のご祭神は大物主大神ということになる。
一方、『日本書紀』では、大物主大神は大国主神の「幸魂(サキミタマ)奇魂(クシミタマ)」で、つまり分身のようなものだと自ら打ち明けている。
また、「三輪山」の名の由来については、『古事記』にこう記されている。
活玉依毘売(イクタマヨリビメ)という美しい女性のもとに、これまた比類なき麗しさの若者が訪ねてきて、どれほども経たないうちに身ごもってしまった。両親は不審に思い、若者が訪ねてきた時に赤土を床にまき、糸巻きの麻糸を針に通して若者の衣の裾に刺せと教える。その糸を辿っていくと三諸山にたどりつき、若者の正体は大物主大神で、お腹の子は神の子だとわかった。残された糸巻きには、残り三巻(三勾)しか残っていなかったことから、この地を「美和(三輪)」と名付けたという。このように糸をたよりに相手の正体を探るという説話は「おだまき型」と言われ、類似した説話が全国各地に残っている。
崇神天皇の時代に、神意を伝える巫女として倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)という姫がいた。この姫が大物主大神の妻となるのだが、夜にしか姫のもとを訪れない大神に対して、「顔をはっきり見たい」と願い出た。そこで大神は、「姫の櫛を入れた箱の中にいるが、箱を開けても決して驚いてはならぬ」と念を押したものの、姫が箱を開けると、そこに蛇が入っており悲鳴を上げてしまった。大神は、蛇から麗しい男性に姿を変え、「約束を破った姫とは二度と会えぬ」と大空を翔び三輪山に帰ってしまった。姫の方は、後悔の念で箸で女陰を突いて命を落とす。
大物主大神が姿を現わす一つの形が蛇体であったということから、大神神社では蛇神信仰も伝わっており、蛇は「巳さん」と親しみを込めて呼ばれている。拝殿の右手にある「巳の神杉」は、大物主大神の化身の白蛇が棲むと言われ、蛇の好物の卵が参拝者によってお供えされている。 |