葛城修験の霊山金剛山

『大和名所図会』より

 実は、「金剛山」と言う名の山頂はなく、湧出岳(1112m)、葛木岳(1125m)、大日岳(1094m)といった峰々をいただく山地の総称が「金剛山」と呼ばれている。しかし、かつて金剛山地一帯は「葛城山」あるいは「高天山」とも呼ばれており、江戸時代までは、山伏(修験者)たちの姿が多く行き交う霊山であった。修験道の開祖役行者は、初めこの地で修業をつみ、後に大峰山に移ったと伝えられている。その葛城修験の拠点が山頂付近にある転法輪寺(真言宗醍醐派大本山)で、山号は「金剛山」である。葛城修験の繁栄にともない、いつのまにか人々は山号の「金剛山」に敬意と親しみを込めしばしば略称のように使い、葛城山脈の最高峰を示す名称になったと想像する。
 江戸時代、大峰山系の七十五靡修行を「金剛界修行」、葛城山系の二十八宿修行を「胎蔵界修行」とし、それぞれが峰山伏には必修の修行場とされていた。そして、両方の峰駆け修行を達成した行者を「金胎両峰(こんたいりょうぶ)修行成満者」として尊敬された。葛城二十八宿とは、西は加太・友ヶ島から北端は大和川上流亀ヶ瀬までの各所に、役行者が法華経二十八品を一品ずつ埋納して築造したとされる経塚で、入峯修行者のため二十八ヶ所の参籠行場も作られた。ちなみに、湧出岳には第二十一番経塚がある。
 江戸時代末期に刊行された『大和名所図会』(1791年)には、当時を忍ぶ大伽藍が描かれている。江戸時代の儒学者貝原益軒(1630-1714)の『南遊紀行』によると、当時の賑わいを以下のように記している。「是山伏の嶺入りして修法する所なり。僧寺六坊あり。皆家作美大なり。大和・河内の農民此神を甚だ尊崇し、社の下の土を少しばかり取りて帰り、我田地に入るれば稲よく実りて虫くはずとて、参詣の人夥し。皆宿坊有りて、宿する者多し。檀那にあらざれば宿を借さず。葛城の社は山のいと高き頂上に在りて、大和国なり。金剛山の寺院は西の方の少しひきき所に在りて、河内国なり。葛城の本社の少し西に石不動を立てたり。是大和・河内の境なり。」

 さて、歴史を紐解くと、明治新政府の神仏分離令(1868年)や大教宣布(1870年)は、結果的に廃仏毀釈運動と呼ばれた仏教施設の破壊活動を引き起こしてしまう。さらに、その後の修験道廃止令(1872年)も追い打ちをかけた。葛城修験道の中心であった転法輪寺も例にもれず、解体を余儀なくされてしまうが、明治4年(1871年)、本尊の法起菩薩は金剛山麓にある脇寺六坊の首座「行者坊」の地福寺(現・奈良県五條市久留野町)に移された。明治5年旧暦6月7日からは、早くもこの寺院で第1回蓮華大祭が行われている。その後も、地福寺では、役行者の命日に行われる蓮華祭りが受け継がれ、それまで金剛山参りをしていた人たちも、ご本尊の移動によりこの地を訪れるようになった。戦後しばらくもたいへんな賑わいだったそうだが、現在も7月7日に地元の信者たちを集めて護摩がたかれている。
 明治以降、転法輪寺のもとあった場所には葛木神社だけが残った。役行者は、開山時、自身の祖神である一言主大神を祀る葛木神社を鎮守としてあわせ祀ったとされている。毎年7月7日の役行者の忌日には、葛木神社も例祭を催してきた。一方、昭和25年(1950年)の役行者1250年忌には転法輪寺の再興事業が始まり、現在の地に(葛木岳山頂の北西斜面)、昭和36年(1961年)本堂が落慶された。さらに、平成12年(2000年)より始まった転法輪寺ご本尊復刻遷座事業は、平成23年(2011年)に結願を迎え、本堂と共にご本尊法起菩薩が鎮座する。現在は、第61代住職のもと、司講の活動によって葛城修験が再興され、山伏の吹く法螺貝がこだまする金剛山が蘇りつつある。

『大和名所図会』より

 
れんげ大祭(転法輪寺)   葛城二十八宿修行
 
転法輪寺   地福寺蓮華祭り