『菅笠日記』を携えて奥千本からの滝巡り

『大和名所図会』より宮滝

よき人のよしとよく見てよしといひし 吉野よく見よよき人よく見つ (巻1-27)

 1772年(明和9)、『万葉集』のこの歌からヒントを得て、吉野の花見を思い立った本居宣長は、その旅を『菅笠日記』に記している。3月5日に松坂を出発し、途中長谷寺などにも立ち寄りながら、3月8日に吉野山入りし た。この日付は旧暦なので、新暦に換算すると4月10日の到着。花のピークは少し過ぎていたようだが、今で言う上千本から奥千本にかけての桜は、まだまだ楽しめたのではないだろうか。
 さて、旧暦3月9日は、雲一つない青空だったようで、吉野山の宿を出てまずは奥千本周辺を見物している。当時は、安禅寺も立派な伽藍を配し、大峯奥駈の玄関口として賑わいもあったであろう。安禅寺跡から東へ進むと青根ヶ峰(858m)があり、万葉人も崇めた水分山だ。この地に降った雨は、東へ流れると音無川(蜻蛉の滝)、北へは喜佐谷川(象の小川)、西には秋野川、そして南は脇川(黒滝川・丹生川)と注ぎ、いずれも吉野川に通じる分水嶺である。

神さぶる磐根こごしきみ吉野の 水分山を見れば愛しも (巻7-1130)

 宣長は、その後、青根ヶ峰から現川上村の西河集落を経由して大滝に到着している。現在、青根ヶ峰と蜻蛉の滝を音無川に沿ってつなぐ登山道も整備されているが、坂を下る途中、東の谷に菜摘や國栖の集落を見下ろせたというから、青根ヶ峰から北西に延びる尾根を下ったよう である。
 さらに、大滝まで足を進めた宣長は、「瀧というより早瀬で、直下に落ちる滝ではないのだが、貝原益軒翁が『是非近寄って見るよう』にと説いているので、間近で覗いてきた。」と記している。 確かに、大滝は後述する宮滝同様、吉野川本流が岩礁を削ることで生まれた急流だ。その後、滝を見ながら酒を飲んでいると、願ってもない筏流しに遭遇し、盃の手が止まるほど見入ってしまった らしい。吉野川流域のスギは「吉野杉」と呼ばれ、年輪のきめ細かさから主に樽材として重宝された。この地域の筏は、「一丈二三尺ほどの長さのものを三・四本ずつ組んで並べ、十六艘につないだものを計四人乗りで操っている」と、宣長は詳細に記録している。大滝と呼ばれるこの早瀬は、筏を流すには勝手が悪く、宣長の時代、既に人工的に掘削された水路を本流の右岸に通っていた。そ の人工流路を流す様に興奮したようだが、今もその水路はしっかり残っている。ただ、筏流しそのものは、昭和30年代にこの地から消えた。
 西河の清明の滝(蜻蛉の滝)では、里人の「岩飛」という見世物があることを聞き、宣長は興味を持つ。この滝は高さ50mで豊かな水量を放ち、銚子の口のような深く淀んだ滝壺に吸い込まれていく。この滝壺に岩の上から飛び込んで浮き出ることで 、銭をとるというのだ。ただ、この時は長雨で水量が多く危険だという理由で断られたが、山(仏が峰)を越えた吉野川の宮滝で見物できることになる。

 宮滝付近を流れる吉野川は、砂岩泥岩互層の岩礁を浸食して狭い流路や大小の淀を生み出している。宣長の訪れた頃は、岩から岩へ三丈(約9m)ほどの橋が架けられ柴橋と呼ばれていた。ここで行われる岩飛は、水際から二丈五尺(約7.5m)ほどの高さから、足からと後ろ向き、逆様と3通りの飛び方を見せてお金を取ったらしく、『大和名所図会』(1791年刊)にも挿絵として描かれている。宣長は、この誘いに飛びつ き見物した。
 宮滝は、天武・持統天皇がしばしば訪れた吉野離宮のあったとされるところで、先の青根ヶ峰は、喜佐谷と共にここから真南の方向に望むことができる。国学者である本居宣長は、この地を詠んだ『万葉集』のなかの次の三首も味わいながら、宮滝から象(きさ)の小川に沿って もと来た吉野山への帰路としたようだ。

み吉野の青根が峰の苔蓆 誰か織りけむ経緯無しに (不明 巻7-1120)

昔見し象の小川を今見れば いよよ清けくなりにけるかも 
(大伴旅人 巻3−316)

わが命も常にもあらぬか昔見し 象の小川を行きて見むため 
(大伴旅人 巻3−332)

 厳密に言うと、桜木神社の前を流れる川は、青根が峰を源とする「喜佐谷(きさたに)川」で、さらに上流へ進むと川は二股に分かれる。右の川に沿った道をとると「高滝(たかたき)」があり、こちらが上千本に続く「象の川」である。この高滝は、葛飾北斎『諸国滝廻り』の一つとして描かれた「和州吉野義経馬洗滝」のモデルと言われており、義経が吉野へ逃れる際に馬を洗ったという故事もある。宣長は、義経が嫌いだったのか、この手の伝説に聞き飽きているのか、宮滝で 義経の話が出たときも嫌悪感をあらわにしている。宣長が歩いた頃は、この像の小川辺りも桜が多く、ここも含めて「吉野山の桜」というのだろうと感想を述べている。ただ、 同時にこの頃からスギの植林が進んでいたようで、神さんはどう思うのかなと嘆いてもいる。現在は、 この地に鎮座する桜木神社の名にふさわしいヤマザクラを探すのに一苦労、ほぼ人工林の森と化している。
  この道は稚児松地蔵を経て上千本か如意輪寺に通じているが、既に陽の傾く帰り道、宣長はなんとか次の二首をひねり出しこの日を終えている。

ながれての世には絶けるみよしのの 滝のみやこにのこる瀧津瀬 (『菅笠日記』)

いにしへの跡はふりにし宮たきに 里の名しのぶ袖ぞぬれける 
(『菅笠日記』)

 
 
吉野歴史資料館より青根ヶ峰(中央)と象山(右)   大滝(左手が筏流しのために掘削した流路)
 
蜻蛉の滝   宮滝(中央の流れ込みが象の小川で「夢のわだ」))
 
右の絵のモデルと言われる高滝   和州吉野義経馬洗滝(葛飾北斎)