江戸時代、紀州に祇園南海という結構名の知れた文人がいた。宝永元年、彼は大和五條に逗留し、『五條十八景』という漢詩を詠んでいる。その五條に、90年のちの寛政7年、初代五條代官として信濃より河尻甚五郎という官僚が赴任する。「鬼甚五」と呼ばれ領民から畏怖された彼だが、一方で作詩にも通じ、まもなく、先の漢詩『五條十八景』に出くわす。「祇園南海の詠んだものか...」河尻は、知人の通して老中松平定信をはじめととする各方面の有識者に、その漢詩の書を頼み、詠詩十八編に呼応する画を伊勢の三井丹丘に描かせた。片田舎の五條に赴任させられた教養人の退屈しのぎのであったのだろうか。こうして、ちょうど100年のちの文化元年、詩畫帖『五條十八景』が、ごく個人的な趣味として完成する。
私が、この詩畫帖の存在を知ったのは10年ほど前。十八編のうち、いくつかお気に入りのものがあるが、その1つが右の絵。(全編を見たい人は五條市ホームページへ。)『大嶺積雪』というタイトルがついているが、南海の漢詩は以下の通りである。
往昔山霊駆不平 <往昔、山霊、駆けて平らかならず>
銀屏玉雪尚崢エ <銀屏、玉雪、なほ崢エ(そうこう)>
雲悌鳥道求無跡 <雲悌、鳥道、求むれど跡なし>
独有仙人騎鶴行 <独り仙人有りて、鶴にのりて行く>
この絵を見たときハッとした。五條では、真っ白に雪化粧した大峰が、 |