役行者が金峯山上(大峯山)で蔵王権現を感得し、その姿を桜の木で刻んだ伝わることから、吉野山では神木とされる桜の苗を寄進する風習が起こった。1007年には藤原道長、1049年には頼通も金峯山詣を行っており、時の権力者による桜の献木は並々ならぬものがあったであろう。西行の生きた時代には(1118〜1190年)、すでに桜の名所として都にもその名が届いていたが、もちろん現在の吉野山の風景をそのまま重ねるわけにはいかない。

人はみなよしのの山へ入りぬめり 都の花にわれはとまらん (山1455)
 西行の時代の吉野山に至るルートとして考えられるのは2つ。1つは、天武・持統天皇が宮滝行幸を行った際にとった芋峠越えの飛鳥と吉野を結ぶ最短ルート。もう1つは、壷阪峠を越え世尊寺(比曽寺跡)を経て柳の渡しに至るルート。
 現柳の渡し跡は美吉野橋の西に位置し、大正元年(1912)に開業した吉野軽便鉄道がここまで伸びてきて、当時の吉野山への玄関口であった。しかし、かつての渡し場は、比曽寺から下りてきたところで、現在の位置よりも上流であり、その対岸には一の坂が延びて吉野神宮へと通じていた。大峰修験道の逆峰では、柳の渡しにある75靡「柳の宿」がスタート地点であり、ここで水行を行って入峰するのが習わしだ。したがって、京から来る場合は、壷阪峠を越えて柳の渡しから吉野山入りという後者のルートが合理的であったと考えられる。
 ただ、西行の場合、高野山をはじめ紀伊国に地縁があり、吉野川(紀ノ川)沿いに遡ってきたことも多かったであろう。いずれにしても、当時の吉野山は何泊もの旅をしてやっとたどり着く桃源郷で、一生に一度吉野の花見に行ければ本望であっただろう。ところが、この歌では、都の花に飽きたりた人たちがこぞって吉野へ向かったかのような様がうかがえるが、西行の周辺のそれなりに地位のある人たちだったにちがいない。「蟻の熊野詣」という比喩があるが、ここでは「蟻の吉野詣」とも読み取れる。

よし野山たにへたなひくしらくもは みねのさくらのちるにやあるらん (山110)
 現在の吉野山は、尾根筋に金峯山寺を中心とした門前町を築き、参道の両側には旅館が建ち並んで賑やかだ。しかし、西行の時代には、寺院及び宿坊だけが山肌に見え隠れする修行道場で、高野山や比叡山の様に近いと想像される。当時は、どこにどれだけのヤマザクラが植栽されていたのかわからないが、今よりもその面積が3分の1だったとしても、新緑の広葉樹とヤマザクラのピンクが織りなす錦絵を邪魔するものはせいぜい寺院の屋根ぐらいで、むしろそれらがアクセントとなって今以上に絶景だったかもしれない。

よし野山こすゑの花を見し日より 心は身にもそはす成りにき (山66)
 吉野山でなくとも、自分のお気に入りの桜スポットがあれば、今年の見頃はいつだろうと気が落ち着かない。気象庁から出される桜便りは、ソメイヨシノが基準であり、クローンの彼女たちは同じ環境なら一斉に開花して予測しやすい。しかし、ヤマザクラは1本1本DNAが異なるため、同じ環境であっても開花時期も花

 

の色も少しずつ異なり、自分自身の経験則か実際に行ってその目で判断するしかないのだ。今なら桜便りもクリック1つだが、西行の時代は、リアルタイムの情報もなく、その時期になるといっそうそわそわしいてたってもいられず、何度も無駄足を運んだにちがいない。

   
   
 
1本1本花の色が異なる   遠方は蔵王堂