『西行物語絵巻』 西行が八上王子の社殿の瑞垣に、この歌を書き付けている

 西行が、熊野を歌った、あるいは、熊野で歌ったものに、3つの季節(春・夏・秋)が詠まれている。なかでも、「熊野へ参りけるに」で始まる次の二首は中辺路を歩いたと考えられる。
 中辺路ルートは、田辺から海岸沿いを離れ、山間をぬって東進していくが、西行の頃は、万呂王子から南下して峠を越え八上王子、稲葉根王子と進んで富田川に出た。その後は、富田川に沿って滝尻王子に至る。一方、江戸時代には、万呂王子からさらに東進して潮見峠を越え、滝尻王子に至る短縮ルートが主流となった。

熊野へ参りけるに、八上の皇子の花おもしろかりければ、社に書付けける (山98)
待ち来つる八上のさくら咲きにけり 荒くおろすな三栖の山風 


 西行の生涯を描いた『西行物語絵巻』には、西行が八上王子の社殿の瑞垣にこの歌を書き付ける場面が描かれている。現在の八上神社境内を見渡すと、神社の入口に、植栽されたソメイヨシノの若木が花を付けている。ちょうど、『西行物語絵巻』に描きこまれた桜とよく似た大きさである。しかし、「八上の皇子の花おもしろかりければ」「待ち来つる八上のさくら」という西行の表現からすれば、絵巻はともかく、入口のソメイヨシノでは役者不足である。
 2018年、100年ぶりにサクラの新種として発表されたクマノザクラは、熊野川や古座川流域を中心に、中辺路沿いにも自生していることがわかってきた。今のところ、八上神社周辺にクマノザクラは見あたらないが、ヤマザクラは多い。一方、八上神社から西100mほどのところに、県道上富田南部線に沿ってため池があり、県道端に水面に垂れたエドヒガンの古木がたわわの花を付けていた。また、その奥にはソメイヨシノの大木もある。
 はたして、西行の詠んだサクラは何だったのかと推察するに、ソメイヨシノは省くとして、ヤマザクラ、エドヒガン、そして、クマノザクラが考えられる。

 歌には、「待ち来つる」とあるから、先の三種で最も早く開花するクマノザクラ(3月中旬)とも想像してみたが、上智大学文学部教授西澤美仁氏によると、平忠盛の桜が見たかったと解説している。忠盛は清盛の父で、西行の高野入山や熊野参詣のきっかけを作った人物ともしている。その忠盛が詠んだ八上の桜を、自分も見てみたいと待ちわびていたというわけである。

二月ばかり熊野に詣でけるに 八上の桜のおもしろかりければ (忠盛集)
歳を経て多くの春はこしかげに 八上をかかる花は見ざりき

 
   
 
八上神社(八上王子)   八上神社境内の歌碑
 
八上神社入口のソメイヨシノ   八上神社西のため池に咲くソメイヨシノ
 
八上王子西のため池に咲くエドヒガン   熊野古道中辺路周辺のクマノザクラ

 さて、八上神社は、明治の終わりに合祀による廃社の危機があった。1906年(明治39年)に始まった時の政府の神社合祀政策は、1910年(明治43年)以降には収束を魅せるが、その間、急激な合祀は一応収まったが、全国で約20万社あった神社の7万社が1914年(大正3年)までに取り壊されたという。この政策の進め方には地域差があったようで、三重県や和歌山県、愛媛が積極的だったようだ。神社は宗教ではなく「国家の宗祀」であるという明治政府の政策に従い、地方公共団体の財政が負担できるまでに神社の数を減らすことで、神社の安定的な経営を確立させることにあった。
 この神社合祀施政策に真っ向から反対した知識人も多く、和歌山では南方熊楠であった。熊楠が明治44年8月に東京大学教授松村任三宛に送った書簡が二通残っており、『南方二書』として世に知られている。以下、抜粋。

 例之、カラタチバナと申すものは、前年牧野氏が植物雑誌(『植物学雑誌』)へ出されたときは、土佐辺の栽培品に基き記載されしと存候。小生知る所にては、本州には紀州の外にはあまり聞えず。扨九年斗り前に、那智で小生、三、四本見出す。此ものは変態多きものと見え、自生品に己に白斑あるもの日本ありし。その後一向見出ざりしに、此田辺より三里斗りの岡と申す大字の八上王子の深林中に宇井氏見出す。それより栗山昇平氏、一昨年栗栖川の神社合祀跡で見出す(無論只今は絶滅)。寛政七、八年頃カラタチバナ大に償翫され、一本の価千金に及べる有り。従来欄や牡丹の名花百金に及ぶものあれど百金を出し例を聞ず、と『北窓瑣談』に見えたり。hortorumの名を付しも、此栽培品によれるらん。何に致せ、当県には少なきものなり。而して右の八上王子は『山家集』に、西行、熊野へ参りにけるに、八上の王子の花面白かりければ社に書き付けける
  待ち来つる八上の桜咲きにけり荒くおろすな三栖の山風
とて名高き社なり。シイノキ密生して昼もなお闇く、小生、平田大臣に見せんとして写真とりに行きしに光線入らず、不得止社殿の後より其一部を写せしほどのこと也。此辺に柳田國男氏が本邦風景の特風といへる田中神社あり、勝景絶可(佳)也。又岩田の王子、乃ち重盛が父の不道をかなしみ死を祈りし名社あり。此等の大社七つ斗りを、例の一村一社の制に基き、松本神社とて大字岩田の村役場のぢき向ひなる小社、もとは炭焼きの鎮守祠たりしものを炭焼き男の姓を採りて松本神社と名け、それへ合祀し、跡のシヒの木材を濫伐して村長、村吏等が私利をとらんと計り、岡大字七十八戸斗りの内村長の縁者二戸の外悉く不同意なるにも関せず、基本金五百円より追ひ追ひ値上して二千五百円迄積上げたるを、態と役場で障へ止めて其筋へ告げず、五千円迄上りし際村民に迫り絶対絶命に合祀せしめんとするに、其村に盲人あり、此事をかなしみ、小生方へ二、三度云ひ訴へ来る。因て小生此事を論じて大に村長をやりこめ、合祀の難をのがれ今日迄も存立し居る。・・・
  『南方二書』南方熊楠(1911年/明治44年8月東大教授松村任三宛の書簡)より抜粋

 熊楠は、神社合祀政策を阻止すべき理由として、以下の例をあげている。
○ 八上王子では、カラタチバナという希少な植物自生していることが、最近わかった。
○ 八上王子は、西行が熊野詣の折に詠んだ歌が『山家集』にも掲載されており、歴史的にも有名な神社である。
○ 八上王子近くの田中神社は、柳田國男氏が絶賛した日本の代表的な風景である。
○ 岩田王子(稲葉根王子)は、平重盛が熊野詣の際、父清盛の非道を悲しみその死を祈った名社である。
● 村長は、このような名社七つを、松本神社という小さな社に合祀しようとし、廃社する神社から伐採する木材の値をつり上げて、私利私欲に走ろうとしている。

 熊楠等の反対運動によって、かろうじて守られた社叢林が田辺周辺にも点在し、八上神社の社叢林は町指定の天然記念物、田中神社の社叢林は県の天然記念物の第1号として指定されている。とりわけ、田中神社のフジは、普通のものより花序が短く、花弁はやや大きく、色は淡いなどの特徴から、熊楠は、江戸時代後期に刊行された『本草図譜』にヒントを得て、これを「オカフジ」と命名したという。

 
田中神社社葬   田中神社のオカフジ
 
万呂王子から峠を越え八上王子に至る古道   左の古道を上った峠で撮影された南方熊楠