白峯御陵

保元の乱
 崇徳天皇は、父鳥羽天皇の譲位により、満3歳で即位する。いわゆる、鳥羽上皇の院政が始まるのである。崇徳天皇の母は藤原璋子(待賢門院)であるが、『古事談』(2巻54節)によると、祖父白河院と待賢門院の密通によって生まれた不義の子が崇徳天皇であるとしている。それが原因か定かでないが、父鳥羽上皇は弟の後白河の方を可愛がる一方で、藤原得子(美福門院)を寵愛し、崇徳天皇に譲位を迫って得子との子近衛を次の天皇につかせた。苦々しい思いをしていた崇徳院は、鳥羽上皇が崩御すると、後白河天皇を排して自分の子重仁親王を天皇にしようとするが、後白河も抵抗。朝廷内も崇徳上皇派・後白河天皇派に分かれ、藤原氏や源氏・平氏を巻き込んで、保元元年(1156年)、保元の乱が始まる。
 この戦いで敗れた崇徳院は、讃岐国への配流となる。崇徳院は罪人の扱いで、共に戦った藤原教長の子師長らが帰京を許されるが、崇徳院の場合、戦死者の供養と反省の証として写本を朝廷に送っても、「呪詛が込められているのではないか」と拒否され送り返された。その後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)、46歳で崩御する。
 しかし、安元3年(1177年)になると、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の不安が続くと、崇徳院の怨霊によるものではないかと、貴族たちが意識し始める。いわゆる「日本三大怨霊」(菅原道真・平将門・崇徳天皇)の一人となっていくのである。江戸時代後期の読本『雨月物語』(白峯)でも、怨霊として登場する。

崇徳院と西行
 和歌を親しんだ崇徳院の作品のうち、最も有名なのが次の歌である。永治元年(1141)に譲位して間もない頃の作品と言われている。

 瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
       崇徳院(小倉百人一首77番) 『詞花集』(恋 題不知/228)

 和歌が縁か、崇徳院と西行の仲は次のエピソードによく表れている。保元の乱が始まって数日後には勝敗が明らかとなり、崇徳院は、弟の覚性のいる仁和寺へ逃亡した。この時、西行は、高野山からいち早く仁和寺の崇徳院のもとに伺ったとされ、次の歌が残っている。

 世の中に大事出で来て、新院あらぬ様にならせおはしまして、御髪下して仁和寺の北院におはしましけるにまゐりて、兼賢阿闍梨出で逢ひたり、月明くてよみける(山家集1227)
  かゝる世に影も変らず澄む月を  見る我身さへ恨めしきかな

 場合によっては、西行自身の命さえ危険かもしれない局面にもかかわらず、何も力になれないもどかしさを悔いている。そんな主従関係であった。
一方、こうした歌のやり取りもある。

 


 ゆかりありける人の、新院の勘当なりけるを、許したぶべき由、申し入れたりける御返事に
  最上川綱手曳くらん稲舟のしばしがほどはいかり下さん (崇徳院/山1163)
 御返奉りける
  強く曳く綱手と見せよ最上川その稲舟のいかり収めて (西行/山1164)
 かく申たりければ、許したびりてけり

 西行に縁のある人が、崇徳院に勘当されたので、西行が間を取り持ってその許しを願い出たときの歌である。いな舟を「否」に、いかりを「怒り」にかけている。白洲正子の『西行』を引用すると、「『縁有りける人』は誰だかわからないが、一説には、俊成のことだともいわれており、崇徳院と俊成と西行の間には、和歌を通じて切っても切れぬ縁があったのである。それはとにかく、西行が縁者の赦免のために、直接崇徳院と交渉できるほど信頼されていたことは、心にとめておいていいことだ。」と記している。

西行、讃岐の旅
 崇徳院が存命中も、西行は院の心を鎮めるために多くの歌を送っている。そして、長寛2年(1164年)に崇徳院が白峰山に葬られてから4年後の仁安3年(1168年)、西行51歳の歳に、やっとの思いで讃岐を訪れる。

 讃岐にまうでて、松山の津と申所に、院おはしましけん御跡尋ねけれど、形もなかりければ
  松山の波に流れて来し舟のやがて空しく成にける哉 
(山家集1353)
  松山の波の気色は変らじを形なく君はなりましにけり 
(山家集1354)

 白峯と申しける所に御墓の侍りけるにまゐりて
  よしや君昔の玉の床とてもかゝらん後は何にかはせん 
(山家集1355)

 前述の『西行』で白洲正子は、「玉座が永遠のものでないと知りながら、なぜ心静かに往生をとげられなかったのか、今まで口をすっぱくして申しあげたことは全部無駄であったのかと、我が身の至らなさをも顧みて、口惜し涙にかきくれたのではなかったか。」と、この歌を読み解いている。これ以後に詠まれた崇徳院関係の歌は見当らない。

江戸時代の『雨月物語』
 江戸時代後期、上田秋成によって著わされた読本が『雨月物語』である。そして、第一篇の「白峯(しらみね)」は、西行が讃岐の崇徳院陵墓を訪ね、崇徳院の亡霊と対面する。
この亡霊は、生前の恨みを述べ、その恨みを晴らすために、世の中を呪っているのだと言うが、西行が仏の教えにもとづいて慰めようとするものの聞く耳を持たない。天皇・上皇という最高の権力に就いていた身でありながら、情念に憑かれて身を滅ぼし、死後も復讐への執着にとらわれた者に、仏の慈悲に触れ今なお救済が届くのかという命題がこのテーマになっているとも言える。

   
 

崇徳院   崇徳院をとりまく系図
 
勅額門   頓証寺殿
 
西行石像    サヌカイトを使った西行の歌碑
 

白峯御陵へ続く参道

 

拝所下段の源氏の供養塔

白峯御陵と白峰寺
 白峯御陵(しらみねのみささぎ)は白峰山中腹(香川県坂出市)にあり、標高260mの山中である。四国八十八箇所第八十一番札所白峯寺に隣接しており、かつては遍路道や登山道を使って赴いた。現在は、青海神社から白峯御陵へと至る道は、「西行法師の道」として整備されており、その道中、上皇と西行の歌碑が88基、石灯籠93基が建てられている。また、県道180号鴨川停車場五色台線による自動車でのアクセスが可能となっている。
 県道180号線を使った白峯御陵までの車窓からは、讃岐平野に浮かんだ釣鐘状の山々が目に入る。一見して火山活動によるものだと推察したが、後日調べてみると、五色台及びその付近の山頂はサヌカイトの産地であると知る。サヌカイトは「讃岐岩」とも呼ばれる安山岩の一種で、1600〜1300万年前、瀬戸内の火山活動で噴出し、石器としても利用されてきたことはよく知られている。奈良の二上山周辺からもサヌカイトが産出されるが、そういえば、両者の山容はよく似ていて、親しみが湧いてきた。

 長寛二年(1164年)、46歳で崩御した崇徳院の遺体は、都からの指示があるまで八十場の泉に浸された後、白峰山で荼毘に付され葬られた。積み石の方墳だったそうだが、江戸時代には荒廃していたといわれ、歴代の高松藩主らによって修復が重ねられ、今日に至る。
 白峰寺参拝客の駐車場から、直接、白峯御陵を訪れることもできるが、白峰寺参道を使って頓証寺殿(とんしょうじでん)をめざす。崇徳院とホトトギスの逸話が残る「玉章(たまずさ)の木」を通り過ぎると、正面に勅額門が見える。この門は延宝8年(1680年)建立で、門の左に源為義(父)、右に源為朝(子)の武者像が守っているものの、普段は扉が閉じられ見えない。共に、保元の乱で崇徳院側についた忠臣である。頓証寺殿も、門と同年の建立で、崇徳上皇の御廟所である。神社本殿と仏堂の形式が混在した複合様式である。この境内の左脇には、西行法師の石像がある。台座は、西行が白峯御陵を訪ねた際に腰掛けた石だそうだ。サヌカイトを使った歌碑も併設されている。
 勅額門を出て「玉章の木」まで戻ると、白峯御陵へ下っていく歩道が案内されている。先ほどまでの白峰寺境内の喧噪とはうってかわって、人影はまばらとなり、ましてこの御陵を目的地としてこの山に上ってきた者は、この日、私ぐらいだろうかと思ってしまう。奈良にも天皇陵が多いのだが、こちらの御陵も大理石の石段や玉垣などで整えられておりよく似ている。拝所内の前方一対・後方一対の石燈籠は、歴代の高松藩主が奉献したもの。また、拝所下段右手に源為義(花崗岩製)、左手に源為朝(凝灰岩製)の供養塔が建っていた。さすがに、崇徳院の怨霊も深い深い眠りの中と思われるが、森の木立に陽光もさえぎられて湿度も高い。「よしや君昔の玉の床とてもかゝらん後は何にかはせん」という西行の歌を、復唱してみた。