千里浜
西行の名声は、生前のみならず死後もますます高まっていく。例えば、その生涯は、事跡や逸話なども書き加えられ、『西行物語』や『西行物語絵巻』として、人々に読み継がれていった。絵巻の方は、詞書が藤原為家(1198−1275)、絵は土佐経隆(1249−56)の筆と伝えられ、残巻二巻が残っている。(徳川美術館・萬野美術館蔵) 『西行物語絵巻』に描かれた千里浜は、浜から沖合を眺めた構図で、箱笈を背負った熊野詣の行者や早馬の旅人、さらに沖には帆掛け舟が見られる。一方、江戸時代の『紀伊国名所図会』に描かれた千里浜は、北から南に延びた千里浜を描き、広大な浜がよく現れている構図である。 九十九王子は、院政期の皇族の熊野詣先達をつとめた熊野修験者によって、その道中に組織された神社などで、そこでは儀礼を行った。一方で、一里塚的な役割を果たしていたのではないかと想像する。先の千里浜には千里王子があり、岩代王子・千里王子・三鍋王子の区間が、海岸に最接近している。とりわけ、千里王子付近は、砂浜海岸を歩いたと考えられ、『西行物語絵巻』では、そのことを描写しようとしているのだろう。現在も、JR紀勢本線や国道42号線は、海岸まで迫った山地を避けるかのように、やはり海岸のすぐ横を走っている。 和歌山県内では、扇ヶ浜(田辺市)、上浦海岸・橋杭海岸(串本市)、王子ヶ浜(新宮市)、そして、ここ千里浜(みなべ町)がアカウミガメの産卵地として知られ、千里浜に下りる途上には、千里観音の境内に千里ウミガメ館が建てられている。産卵期には、観察会も行われているようである。 さて、西行は、千里浜付近で一夜の宿を求め、その夜、夢枕に出てきた俊恵入道に和歌に対する姿勢を戒められた。 実は、下記のように、出典によって詞書きが異なる。西行の夢に登場する人物群を表にしてみたが、大きく二つに分けることができる。事実はともかく、『新古今和歌集』では、選者の一人である寂蓮、さらに選者定家の父である俊成など、縁のある者に置き換わっているのが面白い。 いずれにしても、西行が百首の歌を詠み、この道に精進しようとした決意が、夢のお告げによるものだとして紹介されている。千里浜の繰り返す波の音こそ、先人の教えと重なって聞こえたのだろうか。 ●『西行物語絵巻』 (徳川美術館本) かくて、まどひありくほどに登蓮法師人をすゝめて、百首のうたをあつらへけれどいなび申て熊野へまいるみち紀伊国千里のはまのあまのとまやに、ふしたりける夜の夢に三位入道俊恵など申ていはく「むかしにかはらぬ事は和謌のみちなり。これをよまぬ事をなげく」とみておどろきてよみておくりけるに、このうたをかきそへてつかはしける すゑの代もこのなさけのみかはらずと みしゆめなくばよそにかきまし
●『西行物語』 (田中本) 登蓮法師人々を勧て、百首の哥をあつらへけれども、いなみ申て熊野へまいりける道に、紀州千里の濱の海士の笘屋に伏たりける夜の夢に見るやう、三位入道俊恵申ていはく、昔にかはらぬことは和哥の道也。是をよまぬ事をなげくと見て、うちおどろきて読て送りけるに、此哥を書そへて遣しける。 すゑの世も此情のみかはらずと 見し夢なくばよそにきかまし ●『新古今和歌集』 (巻第十八 雑歌下 1844) 寂蓮、人々勧めて百首歌よませ侍けるに、いなび侍て熊野に詣でける道にて、夢に、なにごとも衰へゆけど、この道こそ世の末に変らぬものはあれ、なをこの歌よむべきよし、別当湛快、三位俊成に申と見侍て、おどろきながらこの歌をいそぎよみ出だしてつかはしける奥に書き付け侍ける 末の世もこのなさけのみ変らずと 見し夢なくはよそに聞かまし
『西行物語絵巻』 『西行物語』
『新古今和歌集』 『異本山家集』
西行は、湛快が俊成に話しているのを目の当たりにした。
登蓮法師 : 中古六歌仙のひとり。1181年頃に没したという。 俊 恵 : 平安時代末期の僧・歌人。父は源俊頼。早くに東大寺の僧となり、俊恵法師とも呼ばれる。1191年頃没す。 寂 蓮 : 叔父である藤原俊成の養子となり、俗名は藤原定長。『新古今和歌集』の撰者となるが、完成を待たず1202年没す。 俊 成 : 藤原俊成。西行と親交があった。寂蓮の義父。息子は藤原定家。1204年没す。 湛 快 : 熊野本宮大社の社僧で18代熊野別当。1174年没す。 西 行 : 新古今和歌集には、最多の94首が採られ、勅撰歌集の編纂を命じた後鳥羽院も最高の賛辞を残している。1190年没す。 『新古今和歌集』 : 1210年〜1216年の間に最終的に完成。源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮の6人が後鳥羽院の院宣により定められた。 『西行物語絵巻』 : 13世紀に完成。