シーズン中、中千本、上千本まではごった返す人出である。しかし、奥千本へ詣でるとなると竹林院前から奥千本口までさらに15分ほどバスに揺られなければならない。おのずと観光客も減り、開花シーズンを過ぎれば閑散としている。そこに金峯神社や義経隠れ塔などがあり、さらに徒歩で15分ほど歩いたところに、西行庵や苔清水がある。反時計回りの周遊コースをたどれば、宝塔院跡も見られる、明治期の廃仏毀釈が行われるまでは、このあたりにも大きな伽藍の寺院が建立されていたようだ。大峰奥駈道はここを経て南に伸び、西行が詠んだ青根ヶ峰も宝塔院跡から目と鼻の先、そこには女人結界門も建つ。
吉野山去年の枝折の道かへて まだ見ぬかたの花を尋ねん (聞240新86)
西行の時代、ここを桜の名所「奥千本」と呼んだはずもなかろう。人里離れた吉野山の、さらにその奥の仙人が棲むという神仙峡とのまさに境界地であった。ここまでくれば、桜も献木ではなく、自生のヤマザクラが落葉樹の狭間に顔をのぞかせていたのだろう。奥駈道に分け入ってこそ見える桜の絶景や、道なき道の末にたどりついた桜の大木など、新たにじぶんだけの桜を見つける楽しみがあったにちがいない。
いまよりは花みん人につたへおかん よをのかれつつやまにすまへと
(山86)
現在西行庵が建つ場所が、はたして当時の庵跡なのかどうか今となっては確かめる術もないが、芭蕉が西行の歌心を慕って二度もこの吉野山を訪れ、西行庵近くの苔清水に立ち寄って「露とくとく 試がに浮世 すすがばや」という歌を残している。嘉永6年(1853年)3月に刊行された『西国三十三所名所図会』には、「西行庵古跡」としてこのお堂が紹介されているが、当時のものは藁葺屋根だったようだ。その当時、「今西行」と言われた似雲(じうん)という僧がこのお堂に籠っていたと説明が加えられている。こうした由緒
も、のちに西行伝説の地として落ちつけたのであろう。
となると、当時の庵はどんなものだったのだろうか気になる。これには幸い『方丈記』に克明に記された鴨長明の草庵をヒントにすることができ想像に難しくない。長明のものは、壁や屋根はパネルのような組み立て式で、必要とあらば分解して容易に移築ができたようだ。その代わり雪深い山の寒気は薄っぺらい蔀戸(しとみど)を容赦なくすり抜けてきたであろうし、もし一冬こうした庵で過ごしたのだとすれば半ば「行」である。ただこれは飽食暖衣に慣れ親しんだ現代人の発想で、先人たちは寒さ暑さや粗食にもずっと強かったのであろうか。
現在の西行庵は土壁づくりのしっかりしたもので、中に西行像が安置されている。先代の西行像は、水分神社の方に移されたそうでそちらも拝観できる。
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