「蟻の熊野詣」という言葉が伝わるように、院政期の度重なる熊野御幸をきっかけに、一般民衆も大勢の人々が列をなして熊野を詣でるようになった。御幸とは、上皇・法皇・女院の外出をさし、天皇による熊野行幸は行われていない。
熊野を初めて詣でた上皇は、907年の宇多法皇。その後、花山法皇が992年に詣でている。そして、ブームの火付け役となったのが、1090年に始まった白河上皇の御幸で、計9回もの熊野御幸を行なっている。あと、回数のランキングで言うと、後白河上皇約34回、後鳥羽上皇の28回、鳥羽上皇21回がベスト3。西行と縁の深い待賢門院も12回訪れている。
熊野詣とは、本宮(熊野本宮大社)・新宮(速玉大社)・那智(那智大社)の熊野三山を参詣することをいい、「三熊野」とも呼ばれた。京からのルートは、大阪まで淀川を下り、海岸線沿いに現在の田辺まで歩く。そこから東に折れ、後に「中辺路」と呼ばれる熊野古道を通って本宮大社にたどり着いた。
その後、熊野川を船で下り熊野川河口の速玉大社に詣でる。新宮からは海岸線沿いを辿って那智大社に参拝、再び同じルートをとって返し、都への帰途についたという。往復約600km、約1ヶ月の旅程であった。
(※熊野本宮大社HP参照)
西行が熊野を詣でたルートは定かでないが、「八上王子」「七越の峯」「雲取や志古の山路」「みき島(伊勢路)」「錦(伊勢路)」などの地名が歌に詠み込まれており、その足跡の微かな手がかりとなっている。そして、その道中、那智の大滝にはずいぶん心奪われ逗留したようだ。
熊野二首 (※あと一首は、後に掲載)
三熊野のむなしきことはあらじかし 枲(むし)垂れいたの運ぶ歩みは
(『山家集』1529)
月照滝
雲消ゆる那智のたかねに月たけて光をぬける滝の白糸 (『山家集』382)
陽光の下でさえ、那智の大滝の神々しさにだれもが心奪われるのに、月夜に浮かび上がる滝の白糸は、いっそう幻想的であっただろう。この那智山には、古くから「那智四十八滝」という瀧篭行場があり、花山法皇も大滝(一の滝)の上流にある二の滝の断崖上に庵を設けて千日瀧篭行をしたという。西行は、その百数十年後に訪れたわけだが、花山院の庵の跡を尋ね、院が歌に詠んだ桜の木の古木を見つけ思いをはせる。
ちなみに、花山院は、17歳で即位し在位わずか2年で出家し法皇となった。その後、熊野から三十三の観音霊場を巡礼して修行したのが「西国三十三所巡礼」として現在でも継承されている。その一方で、法皇の乱行ぶりを伝える逸話も多い。西行は花山院の残した歌を通じ、関心をもったのだろうか。
【花山法皇が滝行の時に詠んだ思われる二首】
修行し歩かせ給けるに、桜花のさきたりける下に休ませ給てよませ給ける
木のもとをすみかとすればおのづから 花見る人になりぬべきかな
(『詞花和歌集』276)
石走る滝にまがいて那智の山高嶺を見れば花の白雲 (『夫木抄』四)
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