宇治橋を望む五十鈴川

 伊勢神宮内宮へは、その玄関口ともいうべき近鉄宇治山田駅から路線バスを使うのが一般的だが、今回は、近鉄五十鈴川駅から歩いてみることにした。駅から内宮までは徒歩30分という案内である。
 五十鈴川駅のすぐ東側を走る御幸道路は、伊勢神宮の外宮と内宮を結ぶためのもので、明治天皇の行幸に合わせて1910年に完成した。道路の両側には寄進された街路樹や石灯籠が 一定間隔で建てられ、参宮街道としての風情を補っている。途中、月読宮(つきよみのみや)があり、ここにも西行の歌が残っている が、別の機会に紹介しよう。月読宮を過ぎると国道23号線と合流する。こちらは四日市を起点に東海道から分岐して伊勢神宮へ向かう参宮街道として、江戸時代から賑わってきた道である。このまま国道をたどれば宇治橋前に到着するが、東へ逸れて五十鈴川河岸を探す。護岸工事の整った五十鈴川 をすぐに見つけることができるが、かつての面影を残しているとは言えない。それでも清らかで豊かな流れに心は軽くなる。
 伊勢道路に通じる浦田橋が目に入ると、宇治橋はもうすぐである。この橋を渡った対岸には三重県営総合競技場があり、この周辺はかつて「宇治の西行谷」と言われていたそうだ。明治期には西行庵を思わせるような茅葺きの庵が建っていた らしいが、今は写真でのみ知ることができる。西行が60代の約7年間伊勢に逗留していたとされる草庵候補地には、もう一つ「二見の西行谷」がある。こちらは五十鈴川のさらに下流にある安養寺跡がそう らしいが、いずれも確かな証拠は見つかっていない。
 浦田橋の橋桁をくぐりると100メートルほど先に、川縁に突き出したような日本建築の料理屋が目にとまる。“豆腐と穴子料理の店”「とうふや」と銘打っており、帰路の昼食場所にと狙いを定める。平行して西側に通るおはらい通りやおかげ横丁 は、近年大変な賑わいだが、その喧噪とは打って変わって、五十鈴川の瀬音だけを聞きながら神路山に近づいていく。

高野山を住みうかれてのち、伊勢国二見浦の山寺に侍りけるに、太神宮の御山をば神路山と申す、大日の垂跡を思ひてよみ侍りける

 深く入りて神路のおくを尋ぬればまた上もなき峰の松風 (御裳濯河歌合71)

 流絶えぬ波にや世をば治むらん神風すゞし御裳濯の岸 (御裳濯河歌合72)

 この二首が収められている『御裳濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)』は、西行が内宮に奉納した自歌合で、自己の秀歌72首を選び、藤原俊成に判を依頼し た。ちなみにこの二首の場合、俊成は「持(引き分け)」としている。
 神路山は、古くは神宮式年遷宮に用いるヒノキを調達した御杣山(みそまやま)であり、その目的以外の立ち入りや伐採を禁じてきた神域である。 結果的に、本来この地域の気候にあった植生である照葉樹林が保護されてきたことになり、春日山原生林などと共に学術的にも貴重である。巨木となったスギやヒノキ以外

 

に、クスノキやツバキ、カゴノキ、サカキ、ヒサカキ、カシ類やシイ類など、葉の表面にクチクラ層が発達し光沢のある樹木がみられ、林床に光の届きにくい鬱蒼とした神苑の森を形成している。 こうした森林を水源とした五十鈴川には、生物学的にも信仰的にも浄化された水が注ぎ込み、その水面を掃くように吹いてくる風はまさに「松風」とも「神風」とも言え る。
 倭姫命 (やまとひめのみこと) がこの清流で裳を洗い清めた故事から御裳濯河という名前がついたとされているが、もちろん現在は五十鈴川の方がとおりがよい。俗界と聖界の境にあるという宇治橋を渡ると やがて御手洗場(みたらしば)があり、ここで手や口を注いで参拝前の身を浄める。五十鈴川そのものの流れが聖水というおそらく日本一大きな御手洗場であろう。
 最近の参拝のスタイルとして、バスで宇治橋前まで乗り付け、帰りはおはらい通りで精進落としというのが一般的だが、西行の歌を味わうには、 せめて神風涼しい五十鈴川左岸を歩くのはどうだろう。往路気になった“とうふや”も待っていることだし。

   
   
 
浦田橋より「宇治の西行谷」方面    五十鈴川河岸の“とうふや”