西行は、1189年(文治5)、嵯峨から河内の弘川寺に移り草庵を結んだのが72歳の時。そして、1190年(建久1)2月16日、ここで73年の生涯を終えた。
花の歌あまたよみけるに
願はくは花の下にて春死なんそのきさらきの望月の頃 (山家集77)
この歌を具現化するかのごとく、「如月の望月」の頃に亡くなったというので、俊成など西行をよく知る歌人たちはみな感動したという。旧暦2月15日は、2019年の場合、3月21日春分の日であるから、標高の高いこの地(標高約200m)で、少し桜の開花には早いような気がする。ヒガンザクラか気の早いヤマザクラが、ぼちぼち咲き始めていたとしよう。そこで、花の季節をねらって、弘川寺を訪れることにした。
弘川寺は、665年、役小角によって開創されたと伝えられ、大和葛城山の大阪側山麓にある静かな山里にある。1188年(文治4)、後鳥羽天皇が病に伏した時、当時の坐主空寂上人が宮中で法を修することで回復し、その法徳を慕って西行が訪ねたようだ。
円位上人、十月許広川の山寺へまかりて、かれよりつかはしたりける
ふもとまでからくれなゐに見ゆるかな盛りしぐるゝ葛城の峰 (撰集62)
尋ねつる宿は木の葉に埋もれてけぶりを立つる弘川の里 (撰集63)
これらの歌は、紅葉の美しい旧暦10月に詠んだものだろうが、当時の弘川寺周辺の風景がよくわかる。弘川寺から西に大阪平野を見下ろすことができるが、その方角にあったであろう小山は近年造成され、ワールド牧場という観光牧場やさくら坂という住宅地が目と鼻の先に
広がっている。大阪府が抱える人口は、この山里まで迫ってきたみたいだ。一方、西行が訪ねた頃は、葛城山中腹に建つ山寺で、鳥の声しか聞こえないような寂しい場所ではなかっただろうか。
本堂の前に、「隅屋桜(すやざくら)」という名のしだれ桜が咲いていた。『河内名所図会』などには、南朝の忠臣である弘川城主・隅屋与市が弘川寺にて奮戦し、境内大桜の下で自刃したとされているが、その
時の大桜の株は絶えているものの、「隅屋桜」という名を受け継いだ何世代目かの桜がある。ただ、大木となるのは随分先のことだろう。
西行の墳墓は、長らく不明だったのか、江戸時代の歌僧似雲法師によって、1732年(享保17)、西行の命日に発見されたと言われている。似雲法師は、その後、境内に西行堂を建立し、自身の住まいである「花の庵」を建てて西行の顕彰に人生を尽くしたようだ。西行の墳墓は、本堂の北東に位置し、山道を登っていくと開けた台地に出る。古い伽藍図をみると、葛城山頂に向けての尾根筋に、奥の院「善成寺」をはじめ幾つものお堂や塔が描かれており、かつてのこの寺院の賑わいの跡が足下に開けた
この台地かもしれない。西行の墓は、その奥手の木立の中にあり、すぐ近くに先の和歌を刻んだ歌碑が立つ。
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