行者がへり、稚児のとまり、続きたる宿なり。春の山伏は屏風立と申す所を平らかに過ぎんことをかたく思ひて、行者、稚児の泊まりにて、思ひわづらふなるべし。
(雑1117)
屏風にや 心を立てて 思ひけん 行者は還り 稚児は泊まりぬ
山上ヶ岳山頂の大峯山寺は、5月3日の戸開式から9月23日の戸閉式まで開かれ、その期間行者たちで賑わう。その間夏至までを「春の峰入り」といい、仏に花を添え、悟りを求めて登るとい意味合いがある。一方、夏至以降を「秋の峰入り」といい、山の修行で会得した悟りから帰ってくるという意味に変わってくる。この歌は、「春の山伏」とあるから春の峰入りであろう。そして、行者還→稚児泊→屏風立という順に進んだと思われることから、一行は熊野から吉野に駈け抜ける「順峰(じゅんぶ)」であったようだ。
行者還岳の命名の由来は、役行者をも阻んだ急峻な峰とされている。この峰の遠景をみると、山頂は南側に傾いた烏帽子のような形を当てはめることができ、確かに行く手阻む頂に見える。実際のルートはこの峰の東側迂回しており、山頂へはなだらかな北側から容易に登ることができる。よって、命名は遠景からの形容であろう。一方、稚児泊は、七曜岳と国見岳の鞍部にあたり、数十名の一行であっても十分野営できる平地がある。順峰だと、ここから国見岳を経て弥勒岳に向かうのだが、途中「内侍落とし」「薩摩転げ」と呼ばれている急峻な岩場の斜面にとりつくことになる。稚児のような泣き言を言うようではここに置いておくと、厳しく叱責された場所ということであろうか。
ただ、「屏風立」という名の難所は、現在、存在しておらず、果たしてどこへ向かう前に今一度覚悟を決めたのか、意見の分かれるところである。垂直に切り立った岩壁を「屏風岩」と呼んでいるところは各地にあるため、そのような地名をよりどころにするより、このルート上の最たる難所をイメージした方が合理的である。稚児泊から弥勒岳に向かって「内侍落とし」「薩摩転げ」「屏風ノ横駈」という難所が続き、弥勒岳から大普賢岳に至っては「水太覗(みずふとのぞき)」という垂直に切り立った断崖、さらに大普賢岳に至っては鎖や鉄梯子なしで対峙できない岩場が多々ある。いずれも「屏風立」という名に遜色のないところで、緊張感や不安がかき立てられるが、いずれも甲乙つけがたくピンポイントでの同定は難しい。一説には、大峯山寺裏行場の修行ルート上にある「屏風岩」を挙げる人もいるが、左右に屏風のように切り立った岩のトンネルをくぐるだけの行場で、「思ひわずらふ」場所とは思えない。したがって、この歌の「屏風立」にはあたらない。
『古今著聞集』第五十七話「西行法師大峰に入り難行苦行の事」によると、大峰奥駆の先達である宗南坊僧都行宗は、最初、西行の熱意を快く受け入れたものの、いざ峰中修行が始まると、他の人以上に厳しく西行にあたったという。疲労困憊でようやく宿に到着しても、そこでは新入りとして水や薪の手配を言いつけられる。理不尽な叱責を受け、時には杖でなぐられ生き地獄のような責めをうけた。食事も十分なものでなく、飢えとも戦うような行であったとも推察できる。そんな中での、屏風立という難所に直面し、果たして生きて帰れるのだろうかと、読経にも一層の思いが込められたことであろう。 |