天野の里は、高野山へ上る町石道の途中にあって、ここで丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導いたという。由緒ある丹生都比売神社の縁起の一端であるが、高野山が女人禁制の時代には、
この里は女人高野としての役割も果たしていた。
例えば、「院の墓」と示す五輪塔が里内に残っているが、そのまま「院」と読み取れば、鳥羽天皇の皇后待賢門院自身が西行を慕って高野山の麓までやって来たということになる。実際は、『山家集』にあるように、待賢門院中納言の局が、尼となって、天野に移り住んできたようで、この五輪塔はそうした方と縁のあるお墓なのだろう。だとすれば、「院の中納言の局の墓」と記した方が
誤解がない。いずれにしても、高野山に庵をむすぶ西行の導きがあったのかもしれない。
一方、『西行物語』(1646年/正保3年版本)によると、「(西行が)出家後、妻子は1,2年一緒に暮らしていたものの、冷泉院殿の御局という方が、西行の娘を養女とした。妻の方は、高野山の麓の天野という所で仏道修行しているようだが、ここ7,8年は音信不通である」という話を、
西行は都で耳にする。その後、父子は再会し、彼は娘に、「尼となって母と一緒に暮らしなさい。私も、あの世であなた方を迎えよう」と薦め、娘も同意する。その後、娘は、天野に辿り着き、母の住む庵室を探し当てて、一緒に仏道修行をし余生を過ごしたという。
仮に、この話が事実とすれば、妻は、高野山にいる西行のもとに足が向いたのかもしれないし、妻子を天野に住まわせることで、各地を遊行する西行にとって安心することができたに違いない。
西行の妻子が住まいとした庵室は、「西行堂」として、その後、天野の人々によって守り続けられてきたという。『紀伊国名所図会』には、「丹生都比売神社より西南四丁のところに西行堂があり、その前に西行の挾田がある」とも記している。また、同絵図には、挾田の反対側に「西行塚」として宝篋印塔が描かれている。
現在の西行堂は、1986年に場所を移して再建されたものだそうで、未だに里人の西行を慕う思いは絶えない。では、「西行塚」なる宝篋印塔の方だが、現在の西行堂から数百メートル北西の丘にあり、「西行妻娘宝篋印塔」の案内板が掲げられている。西行の妻と娘を供養した碑として、和歌山県の文化財に指定されており、向かって右二基は、応安5年(1372)建立、左二基は文安6年(1449)建立とある。いずれにしても、後に建てられたものらしい。 |