五木寛之『風の王国』と二上山

祐泉寺の山門をくぐりぬけると例の石柱が建つ

【『風の王国』のあらすじ】
 世界放浪の体験を持ち、現在は自然派のルポライターとして出版社に出入りしている青年(速見卓)は、二上山での取材中に、日本社会において未だ流浪の精神を受け継ぎながら講を組んで独自の活動を行っている集団天武仁神講に出会う。その講には、風のように山を翔び歩くことのできる女性(葛城哀)が神出鬼没に現れ、青年は、その講にも女性にも引き込まれていく。そして、明らかになったことは、自分の出生の謎やささやかな人間関係、そして偶然と思っていた数々の幸運が、実は一つの系譜で繋がっていたということだ。

【二上山にて】
 小説の中で、速見卓が歩いた二上山のルートは以下の通りである。
@ 当麻寺→祐泉寺→馬の背→雄岳
A 雄岳→馬の背→雌岳→岩屋峠→雄岳
B 雄岳→春日神社→雄岳→馬の背→岩屋→竹内峠

 当麻寺を見学した後、祐泉寺経由で馬の背に至っている。この後、雄岳・雌岳間を行き来しているが、一方、「雄岳から春日社まで往復し」とさらり書いている。雄岳〜上ノ池横登山口のルートのことだと推察したが、二上登山のメジャーな登山道の1つであるものの、春日神社が起点になっているわけではない。
 さて、速見卓が京都駅から橿原神宮前駅に向かう途中、近鉄特急の中で知り合った僧から、祐泉寺付近の山道に建つ石柱に刻まれた不思議な歌の文句「ナムアミダ ホトケノミナヲ ヨブ コトリ アヤシヤ タレカ フタカミノヤマ」を教わる。この石柱は実在のもので、小説通り祐泉寺のYの字の分岐路を右手にとった場所にある。1922年(大正11)建立の背の高い石柱には、山道から見て正面に「奉燈」と刻まれ、その上に灯明用の四角い穴が空いている。正面右手には「二上嶽南叡山□修学院□祐泉寺」と読み取れる道標が示され、さらに裏面には「南無阿弥陀佛の御名をよぶ小鳥あやしや□たれか□ふたかみの山」と彫られている。最後の歌のようなものは、小説通り意味が謎めいている。

 雄岳山頂で目にした葛木座二上神社(葛城坐二上神社)を、「ブロック塀でかこった社があった。・・・あまり神々しさを感じさせないプレハブのような社だった」と表現している。『風の王国』は1984年に小説新潮で発表されており、1981年から二度目の休筆活動に入った五木寛之は、このときに現地取材を行っているのかもしれない。葛城坐二上神社は、1974年(昭和49)の二上山大火で焼失し、翌1975年に再建されたものであるゆえ、神々しさを感じ得なかったのだろう。その後、大津皇子二上山墓に向かい、墓所の囲いの柵に背中をもたせかけて夢幻の中へ入っていく。

   
「奉燈」の書   二上嶽南叡山/修学院/祐泉寺   「南無阿弥陀・・・」で始まる謎の歌
 
葛城坐二上神社   大津皇子二上山墓
 
春日神社   二上山

【竹内峠にて】
 物語の中では、明治10年、明治の難工事と言われた竹内街道の大開鑿工事が堺県令の号令で始められる。この時の労働力を確保するため、否定住・無戸籍の人々の強制連行が「浮浪者狩り」と称して行われる。この網にかかった中に、「箕作り系のケンシ」たちのグループが含まれ、「山窩狩り」とも呼ばれた。奴隷以下の扱いを受けながら、命を落とす者、また意図的に命を奪われる者もいたなかで、「葛城の猿」と呼ばれたリーダー格の男は、仲間から助けられ同志を募って伊豆方面への脱出に成功する。先の青年速見卓は、その末裔という設定になっている。
 現在の竹内峠付近には、国道166号線が走っており、それと平行して竹内街道の旧道が伸びている。竹内峠では、旧道の方が十数メートル高いところにあり、そこに1985年(明治18)建立の「竹内嶺開鑿碑」がある。碑文からは、「竹内嶺」と呼ばれた急坂の峠は、明治10〜15年にかけて工事が行われたことが記され、小説のベースとなった難工事のあったことが偲ばれる。

鶯の関跡「我思ふ 心もつきぬ 行く春を 越さでもとめよ 鶯の関」康資王母・作/司馬遼太郎・筆
 
中央旧竹内街道、左国道166号線   竹内嶺開鑿碑