八咫烏に導かれ奥吉野を行く神武天皇

岩神神社(吉野町)

 いわゆる神武東征伝のあらすじはこうである。「東の方に、大業を広め天下を治めるによい土地がある。そこは国の中心だから、行って都を作るにかぎる」と、天つ神の御子(=イワレビコ、のちの神武天皇)は、塩土の翁に教えられた。そこで、九州を出発し東征に向かった御子だが、生駒山を越えようとすると長髄彦(ナガスネヒコ)の抵抗に遭い「日神の子孫であるのに、日に向かって敵を討つのは天道に逆らっている」と退散した。そして、今度は熊野から皇軍を進めることになる。
 『古事記』と『日本書紀』では、若干の記述内容の違いはあれど、天つ神の御子は八咫烏に導かれながら紀伊山地を北上し、やがて、宇陀の穿(うがち)に到着する。『古事記』では、その途中、3カ所で「尾生ひたる人」に遭遇する。(『日本書紀』では、穿に到着後、吉野周辺を巡幸して遭遇している。)
 その後、土蜘蛛<※3>などを退治して、御子は橿原宮(カシハラノミヤ)で帝位につく。『日本書紀』では、金色の鳶が飛んで来て、皇弓の弭(ハズ=弓の先端)に止まり、まるで稲光のような光を発して、ついに長髄彦(ナガスネヒコ)の戦意を打ち砕いて従えたとある。この場面が、神武天皇の肖像画によく使われている。

【八咫烏神社】(宇陀市榛原町高塚42)<※1>
祭神:武角身命(建角身命)
 『続日本紀』に文武天皇の時代、705年(慶雲2)に八咫烏の社を大倭国宇太郡において祭らせたとの記述がある。八咫烏伝承は、もともとこの地域の在地氏族に伝承されていたようだが、8世紀以降、山城の賀茂県主が有力となって、賀茂氏が祖とする武角身命が八咫烏となったようである。(八咫烏神社説明板より)

【神武天皇聖蹟菟田穿邑顕彰碑】(宇陀市菟田野町宇賀志221)<※2>
 神武天皇東征の聖蹟を顕彰するために建てられた顕彰碑は、紀元二千六百年奉祝の事業として、昭和15年、計19個所の聖蹟が選定され、同一規格の花崗岩製顕彰碑が建設された。近くに、宇賀志小学校の校舎が残っているが、2006年に他の2校と統合して宇陀市立菟田野小学校が開校しており、ウガシの名がまた1つ消えたのは残念である。

【蜘蛛窟と蜘蛛塚】(御所市)<※3>
 高天彦神社(御所市)の数百メートル南にこんもりとした塚山があり、「蜘蛛窟」碑が建っている。石碑の裏側には、「皇紀二千六百年神武天皇聖蹟顕彰」と刻印があり、1940年(昭和15年)の神武天皇即位紀元2600年を祝った一連の行事の中で建立されたものと考えられる。ただ、生き物が棲息していたような洞窟らしきものは見当たらない。
 一方、一言主神社(御所市)境内にも「蜘蛛塚」があり、神武天皇が捕えた土蜘蛛を埋めたところとしている。双方は直線距離で3.5kmほどしか離れておらす、ここ高天(たかま)は、『日本書紀』に記される天孫降臨のあった「高天原」と伝承されているところである。天つ神の御子(=神武天皇)が活躍した場所としては、この上ないロケーションだろうか。

 
八咫烏神社(宇陀市)   穿邑顕彰碑(宇陀市)
 
蜘蛛窟(御所市)   蜘蛛塚(御所市)

ここにまた高木大神の命以ちて、覚して白したまはく、
「天つ神の御子を、これより奥つ方にな入り幸さしめそ。荒ぶる神いと多なり。今、天より八咫烏<※1>を遣はさむ。かれ、その八咫烏道引きなむ。その立たむ後より幸行すべし」
とまをしたまひき。かれ、その教へ覚しの随に、その八咫烏の後より幸行せば、

吉野河の河尻に到りましし時、筌を作りて魚を取る人あり。
ここに天つ神の御子、「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、
「僕は国つ神、名は贄持之子(ニエモツノコ)<※4>と謂ふ」と答へ白しき。(こは阿陀の鵜養の祖なり。)

そこより幸行せば、尾生ひたる人、井より出で来りき。その井に光ありき。
ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、
「僕は国つ神、名は井氷鹿(イヒカ)<※5>と謂ふ」と答へ白しき。(こは吉野首等の祖なり。)

即ちその山に入りたまへば、また尾生ひたる人に遇ひたまひき。
この人巌を押し分けて出で来たりき。
ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、
「僕は国つ神、名は石押分之子(イワオシワクノコ)<※6>と謂ふ。今、天つ神の御子幸行すと聞きし故、参向へつるのみ」と答へ白しき。(こは吉野の国巣の祖なり。)

そこより蹈み穿ち越えて、宇陀に幸しき。かれ、宇陀の穿( ウガチ)<※2>と日ふ。

『古事記・全訳注』 (次田真幸・著/講談社学術文庫) (古事記 中巻-1/神武天皇)

 奥吉野に棲んでいたという3カ所の「尾生ひたる人」は、『古事記』に言う「国つ神」で、「天つ神」の御子(=神武天皇)からすれば、順従させたい対象である。同じ「国つ神」の長髄彦や土蜘蛛は激しく抵抗するが、贄持之子、井氷鹿、そして、石押分之子たちとは、冷静に会話が交わされている。さらに、石押分之子にいたっては、「天つ神」の御子の行幸のために駈け参じたというから、「国つ神」のスタンスも多種多様である。したがって、奥吉野の「尾生ひたる人」たちは、その後、神として祀られその神社が建立されている。この度、その縁ある地を訪ね歩いてみた。

【贄持神社】(五條市西阿田町/大阿太郵便局より約400m東北東)<※4>
 『(旧)五條市史』によると、1909年(明治42)、神主の藤井氏によって建立されたとあり、当時の住民や郷土史家たちによって気運が高まった上の建立だろうか。拝殿や鳥居はなく、「贄持神社」「贄持」と刻まれた自然石(平成18年2月東阿田氏子・銘)が2カ所に立ち、木立の中に石の祠が鎮座している。祭神である贄持之子は、阿太人の祖であり、ここは氏神のような存在であっていいはずなのだが、先述のように歴史が比較的浅い。
 この地域の氏神としては、「阿陀比売神社」(五條市原町24)がある。主祭神は阿陀比売命(木花開耶比売命=コノハナノサクヤヒメ)であるが、他にコノハナノサクヤヒメの3人の息子も祀り、末弟のヤマサチヒコはイハレビコ(神武天皇)の祖父とされている。阿陀の鵜養の祖である贄持之子が祭神ではないのだが、神武天皇のゆかりを思わせる。
 西阿田町会館から数百メートル南進すると、道路脇に「天の磐舟石」がある。説明看板によると、「神武天皇が八咫烏に導かれて吉野川を下りここに船を着けたという伝承が残る」としているが、記紀には船のことは記されていなかったように思う。

【井光神社】(川上村井光)<※5>
 祭神は井氷鹿神で、文字通り記紀に登場する吉野の首等の祖である。井光集落は、井光川を見下ろす標高600m余りの緩やかな山の斜面に開かれており、こういうところは日当たりがいい。井光神社は、その集落の中心にあってまさにシンボルである。
 御船の滝に向かう林道を進み、アマゴ釣り場を経てさらに北進すると、左手に「井光の井戸」に導く看板がある。この先に、井光穴居跡と伝わる窪地があり、杉木立の中には、「吉野首部連祖加弥比加尼之墓」及び「神武天皇御旧跡井光蹟」と刻まれた石柱が2本立つ。石碑には、「明治33年12月25日 大阪産林海商建之□」の文字が読み取れた。大小の岩がごろごろとしているが、人が生活できそうな洞穴は見つけられなかった。
 厳寒期に氷瀑することで知られている御船の滝の巌上には、井光の守護神が祀られ、「皇塔奥の院」とされている。

【大蔵神社】(吉野町南国栖343)<※6>
祭神:岩押別命
 大蔵神社内には、神域の下方西南寄り約百数十メートルの傾斜地に、高さ10m、幅約20mにも及ぶ巨岩があり、これが国栖の祖神の穴居遺跡と伝わる。筆者は2度にわたって調査するも、標高300mにある境内の社叢には、大小の岩が散在しており、結局、場所の特定に至らなかった。本殿裏には「神武天皇遥拝所」と書かれた石碑も建っており、記紀の記述との関連をここに見つけることができる。
 本殿左手にある吉野産巨石を用いた庭園遺構は、室町時代中期を下らない貴重なもので、「大蔵神社庭園」として奈良県指定の名勝となっている。

【岩神神社】(吉野町矢治1)<※6>
祭神:岩穂押開神(石穗押別命)
 この神社も国つ神石押分を祀ると伝わり、現在は矢治の氏神である。社殿の背後には驚くばかりの巨岩が迫っているが、もともとこの巨岩に対する信仰が、この神社の由来と考えられている。(岩神神社説明看板より)

 
贄持神社(五條市)   天の磐舟石(五條市)
 
神武天皇御旧跡井光蹟碑(川上村)   井光神社(川上村)
 
大蔵神社(吉野町)   大蔵神社庭園(吉野町)