「葛城の神」宿るふるさとの山

能楽図絵「葛城」月岡耕漁・作(立命館大学蔵)

【能「葛城(かづらき)」】
 2025年5月17日、興福寺と春日大社で行われた「薪御能(たきぎおのう)」を鑑賞した。興福寺・南大門跡「南大門の儀」で奉納された演目は、金春流能「八重桜」・大藏流狂言「附子」・金剛流能「葛城」である。
869年(貞観11)に、興福寺西金堂で執り行われた修二会始行での薪猿楽(たきぎさるがく)が最も古く、その後、春日大社や興福寺などの神事で奉仕していた「大和猿楽四座(やまとさるがくよざ)」を原点に、現在は観世(かんぜ)・金春(こんぱる)・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)の「能楽四座」による能と、大藏(おおくら)流による狂言が奉納されている。
 私が楽しみにしていたのは「葛城(かづらき)」という演目。葛城山(金剛山)は、故郷の山であり、今も登山を楽しんでいる。また、ここに登場する「葛城の神」は、他の古典などでは「一言主の神」としてしばしば登場する。以下、あらすじ。

 大和国葛城山を訪れた出羽国羽黒山の山伏一行は、近くに住む女に一夜の宿を乞うことになる。山伏が夜の勤行を始めると、自分の苦しみも解いてほしいと願い出る。女は葛城の神であり、役の行者の依頼を受けて、修行者のための岩橋を架けようとしたが架けられず、そのため、役の行者の法力により蔦葛で縛られ、苦しんでいると明かし消え去る。幕が変わり、山伏たちが、葛城の神を慰めようと祈っていると、蔦葛に縛られた葛城の神が現れる。彼女は大和舞を舞うと、夜明けの光で醜い顔があらわになる前にと、磐戸のなかへ入っていくのである。

 十分に予習をしておいたので、能というものを楽しむことができたし、日本の古典芸能がもつ力に感銘を受けた。とりわけ、「葛城の神」の大和舞はずっと心に残っている。他の古典にも幾多の「葛城の神」もしくは「一言主の神」が登場するが、それぞれの違いを今一度調べてみた。


【文献に記された「葛城の神」(一言主の神)】
出典 要約 神の扱い

『古事記』(712年)
下巻 雄略天皇 
葛城の一言主大神

 天皇が葛城山にお登りになった時、その向かいの山の尾根伝いに山に登る人がいて、天皇の行幸の列にそっくりで、服装も随行の人々もよく似ていた。天皇がお怒りになって矢を弓につがえると、相手もつがえてきた。「名を名のれ」というと、「私は、悪い事も一言、善い事も一言で言い放つ神、葛城の一言主の大神である」と答えてきたので、天皇は恐れ畏まり、自分の太刀や弓矢をはじめ、官人等の着ている衣服をも脱がせて、拝礼し献上した。

 雄略天皇、葛城山で一言主の神に遭遇し、敬意を払う。

『日本書紀』(720年)
第十四巻 雄略天皇
葛城の一事主

 天皇が葛城山に狩りにお出でになった時、突然、長身の人が現れ谷間のところで行き合った。顔や姿は天皇とよく似ていた。天皇は、「どちらの公でいらっしゃいますか」と尋ねると、背の高い人は、「現人神である。まず、あなたの名を名乗りなさい。そしたら私も言おう」と言われた。天皇は「私は幼武尊(ワカタケルノミコト)である」と答えると、「私は一事主神である」と言い、その後、一緒に狩りを楽しんだ。鹿を追いつめても、矢を放つことを譲り合い、轡を並べて馳せ合った。言葉も恭しくて仙人に逢ったかのようであった。

 雄略天皇、葛城山で一言主の神に遭遇し、仲良く狩りを楽しむ。

『続日本紀』(797年)
巻第一「文武天皇3年5月24日条」

 丁丑。役君小角流于伊豆島。初小角住於葛木山、以咒術稱。外従五位下韓国連広足師焉。後害其能、讒以妖惑、故配遠處。世相伝云。小角能役使鬼神、汲水採薪。若不用命、即以呪縛之。

 役行者が伊豆に流されたのは、その能力を嫉んだ韓国連廣足の讒言であると記されていて、一言主は登場しない。

『日本霊異記』
(平安時代初期)
上巻第二十八

 役行者は鬼神たちに、「金峯山と葛城山との間を通いたいので橋を架け」と言ったところ、神は皆憂いた。そこで、葛城山の一言主神が「役の優婆塞は謀りごとをして天皇を傾ぶけようとしています」と天皇に讒言した。朝廷による逮捕・流罪の憂き目に遭った役行者は、怒って一言主神を呪縛した。

  一言主の神の讒言によって、逮捕・流罪の憂き目に遭った役行者は、一言主神を呪縛した。(一言主神の醜さについては触れていない。)

『今昔物語集』
(平安時代末期)
巻11第3話

 役優婆塞誦持呪駈鬼神語 第三 役行者は鬼神たちに、「金峯山と葛城山との間を通いたいので橋を架け」と言ったところ、神たちは従って作り始めた。鬼神たちは「私たちは姿かたちが醜く見苦しいので、夜に隠れてこの橋を造りたいと思います」優婆塞に願い出、夜な夜な作業を急いだ。役行者は一言主の神を呼んで、「おまえは何の恥があって、姿を隠すのか。それでは橋が完成しないではないか」と怒り、呪(呪文)をもって一言主を縛り、谷の底に落としてしまった。一言主神が「役の優婆塞は謀りごとをして天皇を傾けようとしています」と天皇に讒言した。官使は優婆塞の母をつかまえて役行者をおびき出し、伊豆に流した。

 自分の姿形の醜さに人目をはばかって橋の建設に精を出さない一言主に、役行者は詰り呪文をもって縛り谷底に落とした。一言主は、天皇に役行者のことを讒言し、伊豆に流された。

 『記紀』によれば、葛城山の一言主の神は、雄略天皇と対等の立場で描かれおり、決して敵対するものでない。また、金峯山と葛城山に架ける橋の話は出てこない。『続日本紀』では、役行者は伊豆に流されることになるが、それは韓国連廣足の讒言であり、一言主には触れていない。
 『日本霊異記』で初めて、役行者が金峯山と葛城山に橋を架けさせる話が登場し、苦役を強いる役行者のことを天皇に讒言した一言主の神は、役行者によって呪縛にかけられる。しかし、一言主が醜い神であるとは言っていない。そして、『今昔物語集』にいたって、役行者が鬼神たちに命じて金峰山と葛城山の間に橋を作らせようとするが、一言主神は容貌の醜さを理由に夜にしか働かず、役行者の怒りをかって呪縛されるという伝承がほぼ完成する。能の謡曲「葛城」も、この完成形を下敷きにしていると思われる。
 いずれにしても、尾ひれのついた一言主の悪名は、この後の和歌や俳諧に繰り返し使われ、「葛城」は歌枕として古今東西人々に知られるところとなる。

【葛城一言主神社】

 この大神が顕現された「神降」と伝える地に、一言主大神と幼武尊(雄略天皇)をお祀りするのが当神社であります。そして、この『古事記』が伝えるところによると、一言主大神は自ら「吾は悪事も一言、善事も一言、言離の神、葛城一言主の大神なり」と、その神としての神力をお示しになられております。そのためか、この神様を「一言さん」という親愛の情を込めた呼び方でお呼び申し、一言の願いであれば何ごとでもお聴き下さる神様として、里びとはもちろんのこと、古く全国各地からの信仰を集めております。
(葛城一言主神社Websiteより引用)

 こちらの神社では、『古事記』に記されている「悪い事も一言、善い事も一言で言い放つ神、葛城の一言主の大神」を縁起にしている。雄略天皇は、葛城山で一言主の神に遭遇し、敬意を払った対応をしていることから、後の説話に出てくるような「醜さ」や「愚かさ」でまとわれた葛城の神とはほど遠い。
 境内には、雄略天皇の銅像や先の芭蕉の句碑もある。また、拝殿右手には「蜘蛛塚」があり、神武天皇が捕えた土蜘蛛を埋めたところとしている。謡曲『土蜘蛛』を引用した説明看板が立っており、故事には事欠かない。

【葛木神社】
 金剛山葛城岳に鎮座し、一言主大神を主祭神として祀っている。貝原益軒の『南遊紀行』には「絶頂には葛木の神社あり、大社なり、一言主の神といふ」と記されている。雄略天皇が葛城山(金剛山)に登った時、一言主大神が現れたという記紀の故事から、この場所に祀られるようになったと思われる。
 また、葛木神社近くには「雄略天皇御狩の跡」という案内板があり、葛木神社摂社矢刺神社として雄略天皇が奉祀されている。『古事記』では、猪に追い立てられ榛の樹に登って難を逃れた雄略天皇だが、『日本書紀』では、怒った猪を弓で射て踏み殺す勇猛な天皇としての逸話が記されている。いずれも、葛城山での出来事ゆえ、金剛山で遭遇するイノシシは、この時の猪の末裔ということになるだろうか。

 
左金剛山・右葛城山   金剛山頂の葛木神社
 
葛城一言主神社   葛城一言主神社境内の雄略天皇像

【古典に引用される「葛城の神】】

『拾遺和歌集』雑賀1201 小大君
岩橋の夜の契りも絶えぬべし明くるわびしき葛城の神 


 2012年東大入試問題は、この歌を解説した源俊頼による歌論書『俊頼髄脳』(1112年)から出題されており、その問の1つに「この和歌は、通ってきた男性に対して、どういうことを告げようとしているか、わかりやすく説明せよ」とある。

『笈の小文』(1688年) 松尾芭蕉 
葛城山

猶みたし花に明行神の顔

 季節は、葛城山が山桜に染まる頃だろうか。現在の葛城山(奈良県側)は、植林された針葉樹とナラ類やヤマザクラなどの混交林となっており、ルートを選べばヤマザクラの花見を楽しめる。花と葛城の神を対比させたこの句から、決して醜くはない麗しい神を想像させる。一言主神社の境内には、その句碑が建てられている。

『源氏物語』第4帖 夕顔
 一日、前駆追ひて渡る車のはべりしを、のぞきて、童べの急ぎて、『右近の君こそ、まづ物見たまへ。中将殿こそこれより渡りたまひぬれ』と言へば、またよろしき大人出で来て、右近『あなかま』と、手かくものから、右近『いかでさは知るぞ。いで見む』とて這ひ渡る。打橋だつものを道にてなむ通ひはべる。急ぎ来るものは、衣の裾を物にひきかけて、よろぼひ倒れて、橋よりも落ちぬべければ、『いで、この葛城の神こそ、さがしうしおきたれ』と、むつかりて、物覗きの心も冷めぬめりき。…

 渡り廊下の橋の建て付けが悪かったのか、急いでいた女房が着物の裾を引っかけて転び、橋から落ちそうになったので、「こんな橋を造ったのは、(己の醜さを恥じて、夜な夜な突貫工事をしていた)葛城の神ようであることよ」と、照れ隠しをした。みすぼらしい家ながら、女房レベルで葛城の神の故事を引用させ、高い教養の家柄であることを紫式部は演出している。

『枕草子』第184段 「宮にはじめてまゐりたるころ」〜清少納言の初出仕
 いとつめたきころなれば、さし出でさせ給へる御手のはつかに見ゆるが、いみじうにほひたる薄紅梅なるは、かぎりなくめでたしと、見知らぬ里人心地には、かかる人こそは世におはしましけれと、おどろかるるまでぞ、まもりまゐらする。
 暁にはとく下りなんといそがるる。「葛城の神もしばし」など仰せらるるを、いかでかはすぢかひ御覧ぜられんとて、なほ伏したれば、御格子もまゐらず。
 女官どもまゐりて、「これ、はなたせ給へ」などいふを聞きて、女房のはなつを、「まな」と仰せらるれば、わらひて帰りぬ。


 中宮の前では、はにかんでなかなか会話も進まなければ、お姿を見ることさえできず、一刻も早く退出しようとしている清少納言を、中宮が「葛城の神」を重ねて皮肉った。自分の醜さを恥じらう例えで、この時代の教養人の共通語のようである。

 
芭蕉の句碑(葛城一言主神社)   岩橋山の岩橋