源氏物語と長谷寺

本堂内舞台

 「真言宗豊山派(ぶざんは)総本山」として、 また「西国三十三観音霊場第八番札所」として、さらに「ボタンの寺」として、1年を通じ参拝客で賑わう長谷寺。私的には、毎年2月14日に行われる修二会結願の大法要「だだおし」がお薦めである。
 創建は、道明上人が、天武天皇の銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を西の岡(本長谷寺)に安置した686年とされ、さらに727年には、徳道上人が、聖武天皇の勅を奉じて、東の岡(後長谷寺)に近江高島から流れ出でた霊木を使い、十一面観世音菩薩を造ったと伝わる。ちなみに、徳道上人は、718年、「閻魔大王から三十三の宝印を与えられて悩める人々を救うために三十三ヶ所の観音菩薩の霊場を広めるよう委嘱された」と、『中山寺由来記』に伝わる。徳道上人は巡礼の機が熟するのを待つため、御宝印を中山寺の石の櫃に納め、988年、今度は花山法皇がこの宝印を掘り返し、今日の三十三ヶ所を復興したそうである。
 平安時代の古典文学では、藤原道綱母の『蜻蛉日記』(954−974年)、清少納言の『枕草子』(1001年成立)、紫式部の『源氏物語』(1008年文献初出)、そして、菅原孝標女の『更級日記』(1020−1059年)などに、「長谷詣」が描かれており、その頃からすでに隆盛であったことが推察できる。

【源氏物語と長谷寺】
 なかでも、『源氏物語』の玉鬘の巻の劇的な再会場面は有名で、その後、謡曲にも取り入れられている。
 夕顔と頭中将の間に生まれた娘玉鬘は、母が亡くなった後筑紫の国に下国していたが、度重なる求婚から逃れるように上京、願掛けのため長谷寺へ参拝する途中、椿市の宿で偶然、元は夕顔の侍女であった右近に再会するのである。右近からことの成り行きを聞いた光源氏は、玉鬘を自分の娘として迎え入れるのであるが、実は、光源氏と夕顔との間にも逢瀬を秘めていたという。
 椿市は、長谷寺より約6km下流にあり、万葉の時代から海石榴市として名高く、難波津の内港として、大和川の終着点であり起点であった。源氏物語の時代は、宿場街でもあったようで、ここから長谷寺までは徒歩で1時間余りである。現在、源氏物語ゆかりの地として示すものは何もなく、「佛教伝来地」の顕彰碑が建てられている。
 劇的な再会を果たした右近が、ひとたび、玉鬘一行と別れる際に交わした次のような歌がある。

二もとの杉のたちどを尋ねずば布留川のべに君を見ましや  (右近)

初瀬川はやくのことは知らねども今日の逢瀬に身さへ流れぬ (玉鬘)

 現在、布留川上流には天理ダムがあり、大和川(初瀬川)とは田原本町で合流する。そこに「二本の杉」があって、右近はそこで玉鬘一行を見かけたということだが、椿市よりさらに10km下流にあたり、距離的な整合性が合わなくなってくるが、源氏物語はフィクションなので、気にする必要はないのかもしれない。布留川と初瀬川の合流のように、この度の運命の再会は必然でもあったということだろうか。ちなみに、長谷寺境内東参道には、現在の「二本の杉」が育っており、源氏物語ファン聖地巡礼ポイントの1つである。

 
海石榴市(椿市)   初瀬川(大和川)、この6km上流に長谷寺
 
本長谷寺   玉鬘神社(近年の造営で宣長の頃にもなかった)

【枕草子・菅笠日記と長谷寺】
 『枕草子』(能因本124段)では、清少納言がある年の正月に、長谷寺で参籠(さんろう)した時の様が実に詳細に記されている。(ちなみに、三巻本では清水寺となっている。)おもしろいエピソードとしては、「何日も続けて籠っているので、日中は少しのんびりとお堂の部屋で一人いたら、すぐそばで、法螺貝をたいへん高い音で急に吹き出したのにはびっくりした」というエピソードがおもしろい。
 時は下って江戸時代、『菅笠日記』(1975年刊)の本居宣長が長谷寺を訪れたとき、清少納言と同じ貝の音を耳にしている。「巳の時、貝を吹き鐘がつかれる。その昔、清少納言がお参りにきた時、突然の貝の音に驚いたと書いているが、あの昔と同じ鐘だと思うととても心が動いた。」と書いているのである。そして、次の歌が詠まれた。

名も高くはつせの寺のかねてより ききこし音を今ぞ聞きける

 さらに、宣長は川辺に出て連歌橋をわたり、対岸の玉葛の君の跡という庵を訪ねた。「源氏物語は架空の話で、あの跡この跡も本物のはずがないのに、この玉鬘は風情がある。」と記している。当時、そこには、二股の大きな杉が立っていたと言うが、現在の東参道付近の「二本の杉」とは少し場所が異なっており、「二本の杉」伝説はあちこちに遷っていくものらしい。

 
正午の貝   連歌橋
 
東参道の二本の杉   徳道上人御廟所の法起院