Mountain Guide
                         くりんとの登山ガイド

           
   
 松浦武四郎と歩く伯母ヶ峯

大迫ダム管理事務所付近より

【伯母ヶ峯】
 6度にわたって蝦夷地及び樺太、国後島、択捉島を調査した幕末の探検家松浦武四郎は、満67歳になってから、故郷の松阪市からも近い大台ヶ原に、3年続けて(1885〜1887年/明治18〜20年)入山している。その時の行動は日誌として記され、『乙酉掌記』(明治18)、『丙戌前記』(明治19)、『丁亥前記』(明治20)といった刊行物で出版された。一方、武四郎の日誌(原本は国立史料館寄託資料)そのものを、松浦孫太氏が解読・筆録した稿本(昭和8年)が、『松浦武四郎大台紀行集』として松浦武四郎記念館から発刊されており、今回、それをもとに武四郎の足跡を追いかけた。ちなみに、稿本では『乙酉掌記』が『乙酉紀行』という題名に改められている。

 大台ヶ原入山に際しては、初回、上北山村の人を案内に立て、天ヶ瀬の八坂神社から北山川の支流である新茶屋谷に沿ってを遡上し、順に芋穴・天竺平・小舟・大舟といった地名を記して伯母峯に至っている。
 現在、新茶屋谷沿いに村道が通じ、県道40号線(大台ヶ原公園川上線)と合流するところが伯母峰峠である。大台口隧道の上に、大普賢岳と伯母ヶ峯を結ぶ尾根が走っているが、県道との合流地点手前100mほどのところに登山口があり、長い梯子が架けられている。武四郎らが、この尾根にとりついた山道は不明である。先の梯子を上ると、伯母ヶ峯へは東に折れるが、すぐに大きな鞍部に出くわす。そこには北山無線中継所なる施設が設置されているが、この鞍部はどうやら人為的に広げられたと思える。実際、北側にはコンクリート製の欄干が苔むした状態で数メートルにわたって残っており、大台口隧道ができるまでは、ここを車両も行き来していたのではないだろうか。旧伯母峰峠という思わぬ歴史的遺産との出合いである。
 この旧伯母峯峠からは、尾根伝いに約1〜2m幅の山道がまっすぐに伸びており、かつて木材を搬出するための木馬道の跡のようにも思える。これくらいしっかりと道がついていれば迷うことはない。途中、標高1240mのピークをトラバースしてかわすが、このピークから北方向に尾根が伸び、1188mの三角点「多古辻」に至る。ブナの大木のお迎えも受けながら、1時間弱で国土地理院の地形図に示されている標高1262mの「伯母ヶ峯」に到着した。この日は、ここでUターンして帰路につくが、よくよく考えてみると、伯母ヶ峯山頂を示す木札もなければ三角点の石標もなかった。どんなマイナーな山でも、たいがい木札は掲げられているものである。しかし、地形図上は何度見ても「伯母ヶ峯」に到達している。今度は、昭文社の『山と高原地図』を広げてみたが、その地図では「伯母ヶ峯」の位置は700mほど東にずれ、三角点1266.7mのところを指していた。どちらがほんとの「伯母ヶ峯」なんだろう。
 後日、リベンジの伯母ヶ峯登山となる。地形図上では、前回引き返したピークから、ドライブウェイに沿った山道が続いており、やがて車道に合流している。1262mのピーク周辺をよく探索してみると、南側に下っていく踏み跡を見つけた。一方、道なりに東へ下るとすぐに、鋭角にVターンする道との分岐があり、このVターンもピークからの踏み跡と合流してドライブウェイに続いているようだ。
 さて、三角点1266.7mの伯母ヶ峯ルートは、地形図上に掲載されていないため、尾根に沿って進んでいく。踏み跡やテープをたよりに迷うことはない。途中、農林水産省伯母ヶ峰中継局が設置されており、この付近の展望はすばらしい。東の方向には、経ヶ峰から大和岳、三津河落山、そして日出ヶ岳に通じる稜線がくっきり見て取れる。また、北に目をやれば、白鬚岳がその勇姿を覗かせている。登山家の今西錦司氏が1500座目登頂の山として選んだピークだが、その左右の稜線は大きな弧を描いており、まるで火口のようである。後に、このお鉢巡りのような周回コースが登山道となっていることを知る。1262mの「伯母ヶ峯」から三角点1266.7mの伯母ヶ峯へは、30分弱で到着。ここには三角点と共に、やはり幾つかの「伯母ヶ峯」を示すプレートが掲げられてあった。
では、どちらのピークが本物の「伯母ヶ峯」なんだろうか。その疑問は解けないまま下山となるが、1つ確信して言えることがある。松浦武四郎一行は、国土地理院の地形図上にある「伯母ヶ峯」を経てキワダズコに向かったと考えるのが自然だろう。武四郎の日誌に記載されている「伯母ヶ峯」は、1262mのピークの方と断定した。

 武四郎の日誌『乙酉紀行』では、伯母ヶ峯に立ち寄る数年前まで、地蔵堂があったと聞き記している。このお堂は、旅人が寝泊まりするにも便利だったようだが、別名狼地蔵と言って、ニホンオオカミや妖怪の一本足たたらから守ってもらえる御利益があったそうだ。「伯母峰の辻堂」とはそのことだろうか。

農林水産省伯母ヶ峯中継局付近より

 
旧国道伯母峰峠   コンクリート製のガードレール
 
ブナの大木   地形図上の伯母ヶ峯1262m
 
1266.7mの三角点   白鬚岳に登りたくなったロケーション
    武四郎一行の大台へのルート 備 考
明治18  5/17

天ヶ瀬(八坂神社)→芋穴→天竺平→小舟→大舟→伯母峯→(旧)大台辻→黄蘗岡→小池岳→経導師(経ヶ峯)→山葵谷→高野谷→開拓場

伯母峯の地蔵堂倒れて今はなし
経ヶ峰:迷い寒さで震えたき火
古材で作られた野宿小屋(泊)

5/18

開拓場→大和谷→逆川→西ノ滝(銚子口)→大和谷→名古屋谷→座禅石→中ノ滝→東ノ滝→開拓場

小豆粥
5/19

開拓場→高野谷→国見が岳(大和岳)→日本ヶ鼻→如来月→三途の川落(三津河落)→七ツ池→塩辛谷→日出が岳(巴が岳)→正木兀(こつ)→巴が淵(片腹鯛池)

桧皮剥いで仮小屋(雲雀谷の上)
「優婆塞も聖もいまだ分け入らぬ 深山の奥に我は来にけり」

5/20

巴が淵→ほうそ兀→牛石→大蛇倉(ー)→ほうそ兀→白崩谷→二股谷

般若心経
實利行者の小屋・井戸、小屋掛け

5/21 二股谷→木津  
明治19 4/23 大阪府知事に「大台江小堂建設之義御聞置願書」  
5/ 3

祖母谷村→新坂峠→市次郎後家→経塔石→開拓場→牛石→開拓場

前日、祖母谷村大谷伝次郎家(泊)
シュウリ(野鳥の名)

5/4

開拓場→祖母峰→大舟→小舟→天竺平→いも穴→西川→天ヶ瀬

弥一郎宅(泊)
5/8 木津に出立 舟津村の井上藤兵衛宅に泊
5/9

舟津村→河内村→落合→白滝→水越峠(水呑峠)→奥定宮

炭焼き小屋に一泊
5/10

奥定宮→千尋滝→かもすけ谷→平等石→七ツ釜→不動滝→奥定宮→高瀬→中定宮→ちゝの谷(父ヶ谷)→奥大杉村

大杉谷に入山
浅井八重之介宅(泊)

明治20  5/9

西原村→河合村→小橡村→黄蘗村→滝泉寺→西原村

真田八十八宅(泊)
5/10 西原村大西喜兵衛宅 椎茸飯にうんざり、氷豆腐、鯇子
5/11

西原村→向坂→辻→橡清水→鳥のはた→辻堂跡→大台辻→黄蘗項→夫婦石→塩葉辻→経塔石→開拓場→日本が鼻→名古屋谷→三途川落→塩辛谷→小堂(新築)

 
5/12 巴が淵→牛石→大蛇ー→小堂→護摩場

約60名の村人が12時ごろ護摩場に到着、護摩をたく

5/13 武四郎ら6〜7人残る シウイチリーン(さえずり)
5/14

牛石→白岩崩→大蛇倉の下→ちゐの木谷→白崩出合→きわだ小屋→薬師堂→孫瀬村→木組村

 

【所要時間】
 <往路>
  登山口・・<約50分>・・1262m地点の伯母ヶ峯・・<30分>・・三角点1266.7m
 <復路>
  三角点1266.7m・・<1時間>・・登山口

 
 
   

 
   

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