Mountain Guide くりんとの登山ガイド
【開拓跡〜展望台〜逆峠】 ヤマト谷付近にさしかかると森が開けており、人の手が入った痕跡がうかがえる。いつのものだろうか、明治初めの開拓の歴史について記述した古い看板が放置されていた。1869(明治2)年、京都宇治興正寺の寺侍竹崎官治らが高野谷を開拓し、蕎麦・栗・稗・大根・馬鈴薯などを栽培したが、馬鈴薯以外は不作で開拓は失敗した。1870(明治3)年にも、地元西原の大谷善三郎、馬渕の堀十郎、五条の小川治郎らが高野谷に入り、2年間、稲を栽培したがやはり失敗に終わっている。当時うけた森林へのストレス(伐採等の人為的行為)は、150年たった今も回復できていないのだろうか。この辺りの森林密度はとても涼しげで、林床にも植物やコケが希薄である。 ヤマト谷、コウヤ谷、ワサビ谷は渡渉となるが、大雨の翌日などは増水しており、とりわけ大和谷の水量が多いので、事前にビジターセンターで問い合わせておくとよい。3本の渓流を過ぎると登山道も平坦になり、雨が続く時期には、左手に大きな湿原が目につく。そこにはカエデ科のチドリノキが自生しているのだが、この木の葉は分裂せず全くカエデらしくない。しかし、種子にはカエデ科独特の翼がついているというユニークなカエデである。 大台教会からここまで、登山地図には約2時間とある。開拓分岐から赤い吊橋を2つ渡れば、駐車場までの帰路となるが、逆峠の方へ約20ほど歩くと、大蛇ーに向けて開けた展望地がある。この展望地手前に、大人5人が手を回してやっと届く幹廻りの巨木(ミズナラ)がある。その形から「カボチャの木」と呼ぶ人もいるようだが、根の保護のために簡単な柵が施されている。展望地と言っても、建造物はなにもない。眼下に流れる東ノ川を挟んで、向かいに千石ー、蒸籠ー・大蛇ーを望むことができるが、地理感がないとなかなか検討をつけられない。地図とにらめっこしながら、昼食のひととき、大蛇ーを探してみよう。ちなみに、幻の滝「東ノ滝」もここから真正面にみえるはずだが、樹木の成長と共に見えずらくなってきている。耳を澄ますと、ゴジュウカラやコゲラなどの野鳥が多いのにも気づく。 展望地からもう少し進むと、西大台利用調整地区を示すゲートがあり、その先は逆峠を経て、小処に至る。
【開拓分岐〜吊橋〜ナゴヤ谷〜大台教会】 開拓分岐まで戻り、進路を東へとると、2つの赤い吊橋を渡ることになる。1つめの吊橋は、高野谷やワサビ谷が合流した逆川であり、2つめは逆川に合流する前の ヤマト谷である。逆川はやがて、西ノ滝となって東ノ川へ落ちる。 この辺りのブナの大木には、幹に打ち付けられたまま放置されている碍子(がいし)を目撃することができる。1925 (大正14)年に、古川嵩氏の発案で大台教会〜河合間に設置された長距離有線電話の架設跡かと思われる、今なお白亜の輝きを留めている磁器製品に、100年前の歴史を垣間見ることができる。 吊橋から大台教会までの後半ルートは上りとなり、登山地図上は、駐車場まで約1時間半とある。大きな石がごろごろとした悪路が続くが、一汗かくような上り坂がやっと落ち着きを見せた辺りで立ち止まってみよう。北(左手)方向の林間に、大和谷付近から伸びてきた木材搬出路跡がここで交差している。このトロッコ道跡は、この先、現在の登山道とほぼ重なりながらナゴヤ谷付近まで続き、さらにシオカラ谷まで伸びていたことがわかっている。そうした予備知識を持ちながらこのルートを歩いていると、大正時代の風景が垣間見えてくる。 中ノ谷に至るまでに、巨岩の目立つ箇所があり、さらに登山道脇に湧水が見られる。だれがどういう理由で名付けたのだろう、この水は「タタラ力水」と命名されている。この辺りは、リョウブやヒメシャラ、フウリンウメモドキが多い。 また、登山道と平行して流れる河岸には、ヤマブドウなども見つけることができる。 中ノ谷・ナゴヤ谷の2つの木橋を越えると、いよいよ最後の上りとなる。林床には美しい苔が繁茂し、季節があえば、ヤマツツジの赤い花がもうひとがんばりと励ましてくれる。
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