Mountain Guide
                         くりんとの登山ガイド

           
   
 東の大杉谷、西の五色湯峡谷 【筏場道】
筏場道随一の難所

 1922年(大正11)8月、内務省衛生局の撮影隊は大峯山系・大台ケ原の映像をカメラにおさめ、それを編集したサイレント映画『吉野群峯(全3巻)』のうち2巻が、岸田日出男氏の遺品の中に見つかった。その後、大淀町によってデジタル化され、その中の第3巻「大台ケ原〜川上村大滝」には、吉野群役所の技師として撮影隊に同行する岸田日出男氏と共に、当時の奈良県郡山高等女学校山岳部の生徒たちが同行する姿も映し出されている。映像では、十数名の女学生がセーラー服姿で大蛇ーの先の不動返ーを登っている。これにはとても驚かされたが、帰路は、「五色湯峡谷」を経て入之波(川上村)に下ったと説明されている。近年は、あまり聞かれなくなった「五色湯峡谷」とは、筏場から本沢川を遡上して大台辻に至る筏場道ルートのことで、大杉谷には及ばないもののそれに追随する渓谷美が楽しめる。ただ、2019年現在、釜ノ公吊り橋〜大台辻〜川上辻間に登山道の崩落が何カ所も有り、奈良県によって通行止とされた。

 入之波温泉山鳩湯を経て、さらに大迫ダムのバックウォーターまで進んでいくと、本沢川と北股川の分岐があり、本沢川の方を進んでいく。林道の最終地点は有料駐車場があり、そこが筏場道の登山口でもある。
 登山口から本沢川沿いには、登山道というより遊歩道と言った方がぴったりとあてはまるルートが施設されている。岩盤を削って造られた道もあれば、コンクリート製の橋が架かっていたり、また、水平に整えられた石畳が続く歩道もある。それらの整備から随分年月が経っているのだろうか、コンクリート製の橋にも苔がむし、雰囲気のある朽ち方をしている。
登山口から30分ほど歩いたところに、「←五色湯」という看板が立てられている。河原に降りていく崖にはロープも伸びており、この付近に五色湯跡のあることがわかる。
 五色湯付近から釜ノ公吊り橋までさらに30分ほどかかるが、途中、1箇所だけ難所がある。激しい流れに対して屏風のようにそそり立った岩盤に、10mほどの鉄梯子と鎖が水平に架けられている。そこは少々のスリルを味わえる楽しみな場所でもあるのだが、その鉄梯子に取り付く方法が見つからないのだ。崩れ落ちたコンクリート製擁壁の断崖が、靴幅ほどのアプローチとなって数メートル続いているが、ふらついて落ちた時には、急流に身を任せてしまうことになる。単独行だったので撤退も含めて5分ほど思案をしたが、リュックを下ろして先の足場に放り上げ、身軽になった体一つで、擁壁の裏手に足をかけよじ登ることに成功した。

 立派な金属製の釜之公吊橋は、本沢川に合流する釜之公谷を跨ぐことになるが、この先は「通行止」となっている。登山道もやがて本沢川を離れ、釜之公谷の渓谷に沿うことになる。そして、水流は100m下さらには200m下を流れ、目に入らなくなる。
この付近の登山道を歩いていると、あまり見かけぬ松ぼっくりが落ちていることに気づくかもしれない。実は、絶滅危惧種のトガサワラがこの斜面の主構成樹として自生している。近くの「三ノ公川トガサワラ原始林」は国の天然記念物にも指定されている。ニホンリスなどが種鱗を食べ尽くした松ぼっくりは、まるでエビフライのように見えるが、ここではトガサワラのエビフライが見られる。
 このルートの後半(三十三荷〜大台辻)には、大雨による大崩落地が数カ所あり、いずれも崩落跡を何十メートルも高巻きしたり、足の運び場所を慎重に選ばなければならない不安定な地盤となっている。少しでも早い復旧が待ち遠しい。

 
苔むしたコンクリート橋   整備された河岸の石畳
 
ルート随一の難所鎖場と鉄梯子   釜之公吊橋
 
釜之公吊橋を渡りきったところから「通行止」   大台辻
 
登山道沿いのトガサワラ林   トガサワラの果実

【五色湯跡】
 12月初旬、あらためて「五色湯跡」をめざした。筏場道登山口から徒歩30分、「←五色湯」の標識が建てられているところに到着。そこから河原に下り、上流に向かって数十メートル歩く。そして、対岸に渡ったところに源泉がある。硫黄のような臭いが漂う方向に近づいていくと、今も温かいお湯が岩の割れ目から湧き出ている。お湯が湧き出ているところは、河岸の岩礁の隙間で、そこだけピンク色や緑色、白色と鮮やかであるが、岩の色なのか湯ノ花による変化なのかわからない。お湯自身は無色透明で、入之波温泉のように変色もしないから、ひょっとしてこの湧き出し口の色彩が、「五色湯」命名の由来なのか。
 さて、どうやって湯船を作ろうかと、前夜から思案を巡らせ、柄の短い片手鋤を1本持参したが、過去にここを訪れた人が作ったと思われる、河原の石を積み重ねた1m四方、深さ20cmほどの湯船が残っていた。大量に積もった落ち葉と泥を掻き出し浴槽を補強したものの、さして深さは変わらない。やはり持参した温度計をお湯の吹き出し口に置くと、25℃しか示さなかった。意を決して入湯する。晴天とはいえ12月の気温は肌寒い。タオルにお湯を浸し体に流すことをくりかえし、入湯完了とした。入湯の季節には6月以降がよいのかもしれない。

 ここは江戸時代に湯治場として使われていた源泉と聞くが、その痕跡はもはや何も残っていない。いつ建立されたものか、「五色湯所有者○○○○」と刻まれた石碑がすぐ近くに埋まっていた。後日、『川上村史』(1989年)を紐解くが、ここ五色湯に関連した記述は見いだせなかった。ところが、1931年(昭和6年)、雑誌『中央公論』に連載された谷崎潤一郎の『吉野葛』にこうした一文があった。「(後南朝秘史に興味を持った「私」が三の公谷を目指していく旅の中で、)それで四日目には少し日程を変更して五色温泉に宿を取り、案内者を一人世話してもらって明くる日の朝早く立った。私は午後一時頃に八幡平の小屋に行き着き、...」ここに「五色温泉」という宿が登場している。八幡平とは三之公の在所近くにある行宮跡で、そこに至る途中で五色温泉に一泊したというから、地理的には現在の五色湯跡とさほど矛盾はない。また、同小説では、入之波温泉についても後述しているので両者の混同はない。谷崎は吉野山の旅館「サクラ花壇」に滞在し、自動車で奥吉野まで足をのばして調査をし、この小説を執筆したそうだが、昭和6年頃には、現在も湧き出ている五色湯を使った湯治場があったということだろうか。
 ちなみに、2009年に閉館となった入之波温泉五色湯は、この源泉を利用したものではなかった。

【入之波温泉山鳩湯】
 入之波温泉については、現在も豊富な湯量を誇り含炭酸重曹泉の濁り湯がとても人気がある。小説『吉野葛』では、以下のような記述がある。

 その日、私と案内者とは八幡平の山男の家に泊めてもらって、兎の肉を御馳走になったりした。そして、そのあくる日、再び昨日の路を二の股へ戻り、案内者と別れてひとり入の波(しおのは)へ出て来た私は、ここから柏木まではわずか一里の道程だと聞いていたけれど、ここには川の渕に温泉が湧いているというので、その湯へ浸りに川のほとりへ行ってみた。二の股川を合わせた吉野川が幾らか幅の広い渓流になった所に吊り橋が懸かっていて、それを渡たると、すぐ橋の下の川原に湯が湧いていた。が、試みに手を入れると、ほんの日向水ほどのぬくもりしかなく百姓の女たちがその湯でせっせと大根を洗っているのである。
 「夏でなければこの温泉へは這入れません。今頃這入るには、あれ、あすこにある湯槽へ汲み取って別に沸かすのです」と、女たちはそういって、川原に捨ててある鉄風呂を指した。


 この小説上の源泉は、大迫ダムの完成(1973年竣工)によって湖底に沈んでしまった。その後、ハト谷を150mまでボーリングしたところ含炭酸重曹泉が湧き出てきて、現在の山鳩湯に至っている。元湯39.0℃とあるので、小説の入之波温泉よりは温かいお湯が出てきたらしい。
また、1847年(弘化4)頃に紀州藩の本草学者源伴存が完成させた『和州吉野郡群山記』にも次のような記述がある。「塩の葉は山谷にして、温泉あり。至ってぬるく、常に浴する事あたはず。六月に入湯するもの多し。この温泉、渓間より湧き出る。これに浴すれば、七日にて白布、茶色に変ず。泉の味鹹(から)し。」やはり、江戸時代の入之波温泉もぬるく、6月頃の入湯が望ましいとされている。こちらの書物には、五色湯について触れられていない。

岩盤がくり貫かれた歩道
 
ここから五色湯跡に下りる   5色?の岩盤から25℃のお湯が湧き出ていた
 
五色湯跡を示す石標   季節を選んだ方がよい野湯
 
吉野建ての入之波温泉山鳩湯   石灰質の成分が付着した山鳩湯の浴槽
 
 
 
   

 
   

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