Mountain Guide
                         くりんとの登山ガイド

           
   
 東大台周回コース 【 中道〜尾鷲辻〜牛石ヶ原】
苔むす林床のトウヒ林

 駐車場から「上道」を100mほど進むとY字の分岐路がある。左手を直進すると「上道」、右手をとると「中道」といって大蛇ーまで続くルートである。「中道」は「上道」と500mほど併走しており、「上道」を歩く登山客の声が届くほどの距離である。
 中道は上道同様、トウヒとウラジロモミが混在する針葉樹林であり、東大台の特徴が現れた植生である。しかし、昭和30年代以前の東大台との大きな違いは、林床がコケ類やイトスゲに覆われておらず、ミヤコザサが優先してニホンジカの餌となっているという植生である。ただ、中道と上道が併走するあたりには、ミヤコザサではなくスズタケの繁茂しているエリアも見られ、さらにスズタケ群落を営巣地とするコマドリのさえずりがここ数年聞こえるようになった。
 わずかな範囲ではあるが、苔むす林床のトウヒ林もこの中道で見ることができる。大台ヶ原では、セイタカスギゴケ、コセイタカスギゴケ、フウリンゴケといったコケが3種セットで見られることが多く、セイタカスギゴケは西日本では大台・大峰・高野山・氷ノ山などでしか見られない珍しいコケである。また、かつての大台ヶ原には、トウヒやウラジロモミの下の薄暗い林床に、イワダレゴケが何十センチもの層をなして覆われていたと聞く。このコケがたくさん蘇る森を再び取り戻したいものである。

 先を進めると、シオカラ谷支流のヒバリ谷にかかる橋に出るが、橋の袂のビジター側にマンサクの老木がある。「早春のまず最初に花を付ける木」ということでマンサクという名があるとも聞くが、最近はこの木の樹勢が弱く黄色い花も随分少なくなってきたのが心配である。(2018年4月現在)この谷の左岸には、バイケイソウやカワチブシも見られ、有毒植物として紹介する看板も設置されている。バイケイソウの開花期は7月下旬、カワチブシは8月下旬頃からである。
 針葉樹に混じって、歩道にはカエデ類の落ち葉がよく目に付く。この中道沿いには、オオイタヤメイゲツ、アサノハカエデ、ミネカエデなどが自生するなか、尾鷲辻から500m手前の水場には、ここ大台ヶ原でも希少種のナンゴクミネカエデが見られる。また、オニイタヤカエデかと見間違えるほど大きな落ち葉が歩道に散乱していることもあるが、中道はハリギリの多いところでもある。細かな鋸歯のあるのが特徴で、樹皮はコルク状でかつては瓶の栓に使われたところから、センノキという別名もある。

 中道や正木ヶ原には、コメツガやヒノキも多く見られる。尾鷲辻に近い中道一帯の森は、大正時代に四日市製紙によって伐採を受けており、現在は約100年後の二次林ということになる。森の奥をよく見渡してみると、古い切り株が点在しており、この辺りの高木の幹周りもほぼそろっているという特徴からも、皆伐に近かったのではと想像できる。
 針葉樹林に多い野鳥として、東大台では、ヒガラ、キクイタダキ、ルリビタキ、オオルリ、メボソムシクイなどのさえずりが聞こえる。三大鳴鳥の1つオオルリは,高木の樹冠に留まってさえずることが多く、ヒガラやキクイタダキは樹木の中層部に群れで姿を見ることができる。ちなみに、コマドリやミソサザイは、切り株や倒木など林床の突起物の上が好みで、こうした野鳥の習性を知っておくとお目当ての鳥を見つけやすい。

 
スズタケの繁茂   ナンゴクミネカエデ
 
カワチブシ   古い切り株が点在

 尾鷲辻から西には、ブナやミズナラ、ツツジ科の樹木などの広葉樹が針葉樹と混交してくるものの、林床は相変わらずミヤコザサが優先する。とりわけ牛石ヶ原はぽっかりと開けたミヤコザサ草原となっており、約100年前の映像『岸田日出男の遺したもの−吉野群峯−第3巻』(1922年)でも、すでに森林は後退し背の高いミヤコザサ草原が映し出されている。
 明治28年に植生調査のために訪れた白井光太郎氏が、大峰・大台探訪記を雑誌『山岳』に寄稿しているが、そこに次のような伝説が紹介されている。
 「牛石といふ大石あり、昔時最澄上人魔性を降伏し、牛石へ伏せ籠めし處といひ傳ふ、途中にまさきの原と云う處あり、此處にカタワラ池と云あり、義經鯛の片身を捨てたるもの、變じて池となると云傳ふ」
 この牛石の傍らに、表に「孔雀明王尊」、左右に「實利」「明治七甲戌三月摩訶日」と刻まれた石標が建つ。林實利という行者が、ここ大台ヶ原で明治3〜7年に千日行を行ったとされ、その満行を記したものであろうと言われている。また、牛石近くの御手洗池にも「實利行者修行地」の銘がある石標が松浦武四郎らによって建てられている。幕末、6度にわたって蝦夷地及び樺太、国後島、択捉島を調査した松浦武四郎は、晩年の明治18〜20年3回にわたってここ大台ヶ原に入山している。1887年(明治20)の3回目の登山の折には、地元の人たち約60名を牛石に集めてその披露及び護摩修行を行っている。このように、ここ牛石ヶ原は、明治の頃から小屋が建てられ一時的に人の営みがあったり護摩修行などの宗教的イベントが行われてきた場所で、森林が伐採され断続的に人為的がかけられてきたところかもしれない。ただ、近年は、ニホンジカの食圧に取って代わったと考えられる。
 1928年(昭和3)、大台ヶ原開山の父古川嵩氏により、ここ牛石ヶ原に神武天皇銅像が建立された。神武像は2m余り、重量45tで、銅像は6分割され、三重県の尾鷲から人力で運び上げられたという。『古事記』によると、神武天皇が熊野から新しい都の地を目指している時、高木大神の命で「これから進むところは荒ぶる神が多いので、八咫烏を使わすからその後からついていきなさい」と言われ天皇はそれに従った。果たして大台ヶ原付近を行幸したかどうか知るよしもないが、神道系の神習教福寿大台教会を創立した古川嵩にとっては、神武天皇こそここ紀伊山地の開拓者であったのかもしれない。私的に残念なのは、弓の上に八咫烏ではなく金鳶が留まっていること。『日本書紀』では、神武天皇のナガスネヒコ征伐のとき、金鵄が天皇の弓に留まり、その金のような輝きで戦わずして敵を降伏させたとしている。その時の様子が明治以降盛んに描かれており、神武天皇像の代表的なモデルとなっている。古川氏が発注した神武像もそうした流行が背景にあるのかもしれない。

 
牛石   孔雀明王尊(左写真の牛石の左手にある石碑)
 
神武天皇銅像   牛石ヶ原
 
 
 
   

 
   

Copyright (C) Yoshino-Oomine Field Note