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大台ヶ原開山の歴史

 

開拓跡(西大台)

 明治2年、京都宇治興正寺の寺侍竹崎官治らが高野谷を開拓し、蕎麦・栗・稗・大根・馬鈴薯などを栽培したが、馬鈴薯以外は不作で開拓は失敗した。(現開拓跡)明治3年にも、地元西原の大谷善三郎、馬渕の堀十郎、五条の小川治郎らが高野谷に入り、2年間、稲を栽培したがやはり失敗に終わっている。明治18年には、探検家松浦武四郎が晩年の68歳より大台ケ原に登り始め、自費で登山道の整備、小屋の建設などを行っている。(1889年、ナゴヤ谷に建てられた「松浦武四郎碑」に分骨されている。)

 明治24年に入山した古川嵩(ふるかわかさむ)氏は、同32年(1899)に、多くの人々の支援をうけて福寿大台教会開設した。(現在の本殿は、その後改築されたもの。)氏の入山目的は、「大台ケ原山頂に天津神々を始め国津神々を招き祀り、修業道場を造り、心身の病気に苦しむ緒人に万有造化生成の真理・原理・道理の根拠を体得させ、病魔を撃ち払い健全な身体に蘇らす修練の聖なる山とすると共に、風光明媚なこの大台ケ原を広く世に出したいと念願した。」と伝わるが、その後、神道一派の神習教教祖芳村正乗氏に師事し、ここを神習教の分教会とした。しかし、宗教色を誇示し、信者の獲得、教義の押しつけなどの行為は好まず、「福寿大台ヶ原教会」と呼称して、訪ね来る人は拒まず、一般の登山客にも宿泊施設として提供してきた。その後、牛石ヶ原に神武天皇銅像を建立、大台の気象観測にも意欲的であった同翁は、出水警告を下流の河合村林 業組合に連絡する方法として、電話線の架設を大台教会−逆峠−河合間に施した。

大台教会

 その古川嵩氏の後継者として、田垣内政一氏が2代目会長を引き継いだ。政一氏は、大台教会の設立に尽力した田垣内政右衛門氏の孫にあたり、気象観測の継続や自然公園指導員としての活動を行った。現在も、田垣内家によって教会は守られて いる。

 なお、大正6年からは、四日市製紙が東大台の約200haを皆伐に近い状態で伐採しているが、当時、切り出した木材を馬で引かせるため切り拓いた平坦で道幅の広い廃道跡 が今も残る。一部は、西大台で登山道と重なり、鉄製のレールなども放置されたままである。

【参考文献】 『大台ケ原開山記 −古川嵩伝記−』鈴木林・著

西暦

元号

大台の歴史

1606 慶長11 天台僧丹誠上人入山の記録(北山由緒記1708)
1789 寛政元 紀州の南画家野呂介石が大台ヶ原6泊7日で入山、紀行録『臺山踄歴略記』を記す
1834 天保5 紀州藩の漢学者仁井田長群、国学者加納諸平が、『紀伊續風土記』編纂のため地勢調査に入山、『登大台山記』を記す
1835 天保6 紀州の藩医・本草学者畔田翠山が入山(天保6〜7)、『和州吉野郡群山記』を著す
1869 明治2 京都宇治興正寺の僧が西大台にて300u程を伐採し開拓、一年余で放棄(現開拓跡)
1874 明治7 修験者の林實利が大台ヶ原(牛石ヶ原付近)に小庵を結び千日行を成就(明治3〜)
1885 明治18 北海道探検で有名な松浦武四郎が開拓目的の調査登山(5月)、以降明治20年まで毎年入山
大阪府官吏3名が官命で行った大台ヶ原踏査についての正式な復命書『大臺原紀行』(9月)
1891 明治24 大台ケ原開山の父古川嵩が初めて登山
1895 明治28 日出ヶ岳山頂に1等三角点設置、植物学者の白井光太郎が植物調査(8月)
1898 明治31 土倉庄三郎登山道(現筏場歩道)開設、大台教会近くに雨量観測所設置
1899 明治32 大台教会本殿ほか付属の建物がすべて完成し、信心の有無にかかわらず、すべての登山者に宿泊設備が提供された。総工費58,000円はすべて浄財で賄われる。
1910 明治43 四日市製紙が大字小橡と大字西原が所有する山林の大台ヶ原を買収
1911 明治44 オオダイガハラサンショウウオ発見
1917 大正6 元木谷−牛石ヶ原間インクライン開通(6月)※1、(株)四日市製紙が本格的な搬出出荷を開始
1918 大正7 牛石ヶ原−白崩間インクライン延長(8月)※1
1920 大正9 四日市製紙株式会社と富士製紙株式会社が合併し、富士製紙となる(3月)※1
元木谷−名古屋谷インクライン間の林内軌道完成、名古屋谷インクライン開通(8月頃)※1
農商務省山林局が大台ヶ原観測所設置(昭和13年廃止)
1921 大正10 大台林業株式会社を設立し、大台山林事業は富士製紙より分離独立(1月)※1
1922 大正11 内務省、国立公園指定予備調査のため入山
岸田日出男らによって、大峯奥駈道や大台ケ原の映画フィルム『吉野群峯』制作
伊勢新聞「秋の大台山」※三重県知事に随行(10月に連載)※1
大台山林事業中止※1
1925 大正14 大台教会〜河合間に長距離有線電話が開通
1928 昭和3 神武天皇銅像が完成し牛石ケ原に設置
1932 昭和7 大台山林は王子製紙に売却※1
1936 昭和11 吉野熊野国立公園に指定
1940 昭和15 大阪電気軌道(現 近鉄)が桃の木山の家と大杉谷探勝路を開発。(紀元2600年記念事業)
1944 昭和19 大台教会に陸軍分遣隊駐屯
1959 昭和34 伊勢湾台風により攪乱
1961 昭和36 大台ヶ原ドライブウェイ開通(有料)、建設の際に沿道の森林が大規模に伐採される
第2室戸台風により攪乱
1962 昭和37 大台荘完成
1965 昭和40 大台ヶ原ビジターセンター開設
西大台に 689ha のブナ原生林を所有していた(株)本州製紙が、ブナ原生林247haの伐採許可を申請、市民などが「ブナ林を守れ」の運動を起こす
1974 昭和49 奈良県が大台ケ原地区671.55haを(株)本州製紙から買収、奈良県が大台ケ原集団施設地区24haを本州製紙(株)から寄付採納。※昭和59年、環境省に移管。
1975 昭和50 奈良県が大台ヶ原地区142.41ha を宮本重信氏から買収
1979 昭和54 大杉谷堂倉吊橋で落橋死亡事故発生
1981 昭和56 大台ヶ原ドライブウェイを奈良県道 40 号大台ヶ原公園上川線に移管(無料化)
1982 昭和57 大杉谷の吊橋・登山道の整備、山上駐車場の全面舗装、筏場道の整備
1984 昭和59 奈良県が昭和49 年買上げ地を環境庁に移管
1985 昭和60 奈良県が昭和50 年買上げ地を環境庁に移管
1988 昭和63 第1期パークボランティア講習会開催
1992 平成4 現大台ヶ原ビジターセンター開設
2004 平成16 台風21号により大杉谷の吊橋10基と、登山歩道51箇所、鋼桁4基が被災
大杉谷(日出ヶ岳〜粟谷小屋以外)は通行止め
2005 平成17 大台ヶ原自然再生推進計画(環境省自然環境局)
2007 平成19 西大台利用調整地区につき立ち入り制限(9月1日実施)
2009  平成21 大台ヶ原自然再生推進計画−第2期−
大台ヶ原の現存する森林生態系の保全を図るとともに、天然更新により後継樹が健全に生育していた昭和30年代前半までの状況をひとつの目安として森林生態系の再生を目指す。
2014 平成26 大杉谷10年ぶりに全線開通

【参考資料】
★『三重県の森林鉄道−知られざる東紀州の鉄道網−』片岡督・曽野和郎著(※1)
★『大台ヶ原登録ガイドテキスト』(平成 29 年8月)環境省 近畿地方環境事務所
★『大台ヶ原および周辺地区の利用の推移』平成15年度 第1回大台ヶ原自然再生検討会・利用対策部会資料4(平成15年9月24日)