Home 大台自然観察ノート 大台ヶ原の歴史・文化  
 

大正期の大台ヶ原原生林開発(資料編)
〜千萬の黄金眞玉をいただきつヽ知らす顔すな三縣の人〜

小川千甕氏による挿絵(『大臺か原登山の記』より)

『大臺か原登山の記』(吉野郡役所・大正7年出版)に記された大台ヶ原原生林伐採の惨劇

 1917年(大正6)、侯爵徳川頼倫一行9名による大台ヶ原登山が行われた。頼倫氏は、紀州徳川家の第15代当主(第14代までが紀州藩主)で、Wikipediaによると、「兄の徳川達孝や田中芳男、三宅秀ら有志とともに民間での文化財保護運動を推進し、明治44年(1911年)12月には自ら中心となって史蹟名勝天然紀念物保存協会を設立して会長に就任。大正8年(1919年)の史蹟名勝天然紀念物保存法の制定に貢献した。」とある。随行員の中には、当時、大台ヶ原の自然保護を訴えていた理学博士白井光太郎氏の名もある。
 7月31日午前4時、一行は、川上村柏木の朝日館を発ち、0時半奥入之波温泉を経て、午後3時50分大臺の辻。安心橋にて古川翁や北上郡長奥田氏らの迎えを受け、午後6時30分大台教会に到着する。8月1日、松浦武四郎墓参、日出ヶ岳、大蛇岩、牛石ヶ原。2日、大雨の中、午前8時半に教会を出発。11時半、奥入之波の櫻井小学校に到着し昼食をとって、途中、不動窟を見学し、午後5時に柏木朝日館に到着する。
 大台ヶ原山上においては、2泊3日の行程であったが、一行が山を下りた後、翌日以降に(8月3日または4日)、大台ヶ原山上で奈良県吉野郡主催の山林學講習会が開催されており、白井光太郎氏や同じく一行の植物学者大沼宏平氏は講師として招かれていると、『大臺か原登山の記』の冒頭で紹介されている。
 私見だが、侯爵徳川頼倫一行の大台ヶ原山行も、緊急を要する大台ヶ原の保全に向けて、史蹟名勝天然紀念物保存協会会長の力添えを期待した招待だったのかもしれない。そして、白井光太郎氏は、進んで随行し、その一役を担おうとしたのではないのだろうか。

 侯爵徳川頼倫一行による大台ヶ原登山は、随行した作家の遅塚麗水氏らによって紀行文として記され、『大臺か原登山の記』の名で出版された。一行の中には、画家の小川千甕氏も同行しており、挿絵を担当している。
 この紀行文の中に、四日市製紙による大規模な伐採跡が描写されているので、次に引用した。 そのなかで、大台ヶ原を保安林にと政府に申請しているが、その決済が出る前に、製紙会社は数百人の人夫を使って慌ただしく駆け込み伐採を行っているという。伐られた巨木が遥雷を響かせて倒れていく様に対して、古川翁が杖の先を掲げて「あれあれ又た惡魔が木を倒すよ」と憂いている描写が生々しい。また、別項では、大蛇ーに至ると足下で爆音がしたという。まさに、トロッコ用のトンネル工事が行われていたのかも知れない。教会までの帰路、、濫伐された林の中、 あるいは倒された巨木の間をかきわけながら歩く。ある唐檜の年輪を数えると190以上あったと嘆く。白井氏が詠んだ歌をうけて、「三州の人、請ふ白井博士の國風を三誦せよ」と訴え、地元住民たちの現状把握が急務だと 筆者は説いてる。

【P59】
□祭を終へて秀の嶽に嚮ふ、日出を觀るに好き山なれば今は日の出嶽と書けり、大臺原山は、其の名の如く、嶺に平夷の地を開きたり、方十九町とぞ註せらる、一面の都笹、靡蕉、烟らんとし、唐檜、栂、橅、檜の古木、參差として繪の心に排列し、菩提樹、沙羅双樹の亦た其の間に梢を抽き、一境C淨、月明かに星稀れなる夜は當に斯の山姫の翩翻として遊ぶの庭とこそ想はれたれ、中にも唐檜の平林の、梢いづれも白さびて、嶽々たる巨鹿の角を植えたるがごごく、差牙として立ち並び、中ごろより以下に深碧の葉の繁りたる、誠にこの山を莊厳するに足るなり、斯くばかり蒼古曠閑なる境域を破壊し去らんとするもの現はれたるは悲むべく又た嘆ずべし、伯母が峯より續く當面の辻堂山、栃が谷、北山川の峡谷に傍へる西原一帯の原始林は、今より十数年前に、四日市製紙株式会社の買収するところとなりしが、歐州大戦の影響によりて紙價の騰貴したるを奇貨居くべしとして、遽かに斧斤を此の山に入れ、製紙原料として今や盛んに濫伐しつつあり、曾つては頽嵐峭香A美しかりし古林の峯は頓みに童禿の山となりて、無数の切株の参差として碑碣のごとく立てるさまは、さながらの大墓田を見る心地して、満目荒寥たり、實に此の山の懐より、吉野川熊野川宮川の水は湧いて、和、紀勢三州の土を潤す、斯くてあらばいかで其の源を涵養し得べきぞ、山に代えたる其の價は十四萬五千圓とぞ聞く、三縣の有志、保安林に高ケらるべく政府に訴願しつヽあれど、其の裁決の下らん日までに、製紙會社は數百人の工夫を督して、慌だしくも木を伐り倒しつヽあるなり、一行の秀が嶽に嚮ふ途中、伐られたる巨木の僵るヽ響の、遥雷の度るがごときを聞く、其の聲山谷に谺して物凄く、古林の木精、聲を合わせて慟哭するものに似たるなり、僵木の聲を聞くごとに、古川道場主は鐵枵のさましたる例の杖を掲げて、あれあれ又た惡魔が木を倒すよと叫ぶなり、一行惆悵として低回去るに忍びず、白井博士、將に亡びんとするこの山を悲しみて、國風を作る。

 三縣の國内潤す川々の其の源の大臺の山
 五十猛の~の命の播かしけむたつきも知らぬ~山あはれ
 筭木を亂せるごとく切り捨てし檜原樅原見れば悲しも
 谷くヾは途にはらばひ言問はぬ草木も我を迎へ顔なる
 千萬の黄金眞玉をいただきつヽ知らす顔すな三縣の人
 物持は物さし出し物知りは筆をとりつヽ救へ~山
 かくばかり奇しき境は天の下まき求むともまたあらめやも
 青丹よし奈良の里人心せよ吉野の川の其の源に

【P76】
偶ま脚下に爆聲を聞けり、四日市製紙會社の、木材を運搬すべく岩を割いて木馬道を作るなりといふ。
大蛇倉                光庵
眞木生ふる巨蟒の岩ゆ跳むれば深谷うづみて雲湧きのぼる
蒸籠倉                同
天そヽるこしきの岩は見えながら瀧は往來の雲にかくれつ

□午後三時、帰路に就く、途、濫伐の林をよぎる、にれもみ、唐檜、水松などの巨木、無殘にも皮を剥がれ算を亂して横はる、満目荒凉たり、候爵親から唐檜の切株に就いて其の年輪を算へらる、實に百九十餘輪ありき、されど、こは伐られたる木のうちにても齡の尚ほ弱きものなり、縦横狼藉せる木材のうち、合抱に除れる老樹の甚多きを見るなり、斯てこの山は亡び行くなり、三州の人、請ふ白井博士の國風を三誦せよや、幽礀の邊、屋根を杉檜の生皮にて葺き、壁をも同じ皮にて圍みたる樵者の家あり、皆な山に入り去りて、留りて家を守れる老樵の、麁く刻みたる煙草を沙羅双樹の葉に巻きて、さながら葉巻煙草のさませるを口に啣へて燻らしつヽ、鑪もて巨鋸の目を立つるあり、其の孫とも覚しき少年の、礀石の上に踞して米を研ぐあり、山に冠なす人の子なれど、暁猿夜狼と相伍して、雲遠く嵐深き山に棲む、憐れにも亦た寂しかるべし。

   

     

小川千甕氏による挿絵(『大臺か原登山の記』より)

白井光太郎講演を岸田日出男氏が拝聴、そして、...

 侯爵徳川頼倫一行の大台ヶ原登山に同行した理学博士白井光太郎氏は、1895年(明治28)、古川嵩氏が入山して間もない頃に、早くも大台ヶ原を調査している。1916年(大正5)、「吉野山保勝会」(会長は吉野郡長・谷原岸松)主催の講演会に招かれた白井氏は、「吉野名山の保護に就て」と題する講演を行なったそうだ。大台イ原伐採に異義を唱えた講演内容に、当時、吉野郡役所農業技手だった岸田日出男氏は、吉野群山の山岳渓谷や森林の美しさのもつ価値に気づいたと自著『吉野群山』に記している。その後、奈良県技手として「吉野熊野国立公園」の指定(1936年)に向けて尽力し、「吉野熊野国立公園の父」と呼ばれるようになった。
 以下、『太陽」大正5年8月号に掲載された白井光太郎講演録を抜粋。

 大台山の価値は其原生林と奇勝とにあり、(中略)然るに今日聞く所に依れば山下の地元の村民は現今洋紙原料の欠乏に際し山上樹木の需要あるを以て好機逃す可からずとなし全山の樹木を僅々十五万円に某々会社に売却し、会社は将に之が伐木に着手せんとしつつありと。嗚呼中央政府及伊勢、紀伊、大和三国の為政者は宮川、紀の川、吉野川の水源の涸渇するをも意とせず会社が為すが儘に放任して顧ざるか。是実に無責任の甚しきものにして政府あつて政府の実なく、治水の根本を忘れ、国家の名勝を破棄し、貴重の天然物を暴殄するを看過し、之を不問に附せるの誹を免るるを得ざるべし。敢て所見を述べて為政者の反省を促すと云爾。

【参考文献】
★『三重県の森林鉄道−知られざる東紀州の鉄道網−』片岡督・曽野和郎著
★『伊勢新聞』大正11年(1922年)10月21日〜29日連載記事「秋の大台山」漕濱生記者
★『大臺か原登山の記』吉野郡役所・大正7(19191)年
★『太陽」大正5年8月号に掲載された白井光太郎講演録
★「北山東ノ川水利利用計画変更図面」大台水力株式会社(奈良県立図書情報館蔵)
★「大台ケ原山木材搬出道路新設許可一件」1918年/大正7(奈良県立図書情報館蔵)